昨今はあちこちで環境破壊や絶滅危惧、経済破綻など、憂う話が飛び交っています。
ですが、世界を変えることは本当に簡単ではないのでしょうか。
私たちニンゲンは社会を複雑にし過ぎて、何が自然で何が不自然なのかさえ区別できなくなりました。
普遍的な自然の摂理があります。
悲しみを癒すために、ヒトは光を求めると思うのですが、もはや他力ではこの抑鬱された社会は変わらないように思います。
ニンゲンは窮地に立たされないとわからないことがあります。
そうでない時は、微笑み愛で優しく包むだけで乗り越えられます。
ですがそのような短期的な癒しでは瞳が輝くこともないくらい、この国の人は希望を見いだせなくなっているように見えます。
電車に乗り、なんとか笑顔で強く生きていかなければと気を取り直し出勤していく姿や、独りで子どもを抱えて休む間もなく働く母親の背中も、やはり希望に包まれていてほしいものです。
何かを変化させるには、その前に、自覚と受容が必要です。
SNSで、暴露話や、目を塞ぎたくなる他国の現状、動物たちの悲鳴など、心にナイフが刺さるような言葉が流れ、逃げたくなる気持ちはもちろん理解できます。ですが、その恐ろしい世界を実際に創っているのは、私たち個人だと自覚しなければなりません。
傍観者は決して傍観しているだけではありません。その社会を放置し、明日も存続させる荷担者なのです。これを受容しない限り人は動きません。私は性善説を信じているので、傍観者は自分が責任回避していると本当はわかっていて、自分の身体に「罪悪感」という毒を流しているように見えています。
わざわざ自分の身体に毒を流すようなことをするくらいなら、罪悪感を持たない生き方をすればよいのです。
世界は繋がっていて、自分の無責任な行いが、まわりまわって誰かに影響し、現状を良くも悪くもします。
おかしな企業を助けているのは私たち消費者であり、教育に不信感を覚えながらも他人任せにしているのは私たち自身です。
政治の批判をしながら今日も何も変わらない一日を過ごせば明日もそれは続くでしょう。
聞きたくない話に耳を塞ぐと、子孫は負の遺産をおしつけられることになるでしょう。そんなために子どもを産むのでしょうか。
小さなことかもしれません。
目を閉じたり耳を塞いだりせず、自分に出来ることを考えて行えば、誰にだって幸福な世界は創造できるのです。
過去と同じ選択をすれば同様の明日になるでしょう。
他人を巻き込む必要などなく、夫婦で価値観が異なるなら自分だけやるべきことをやればよいのです。
「自分が」この社会を創っているという自覚を持つ人は多くはないかもしれません。
流行りにのった消費活動ではなく、熟考した消費活動であれば、必要なものが残り必要なきものは淘汰されます。
人間社会はニンゲンが創っているのです。
私たちが悲しみを産むことに荷担せず、皆が幸福に向かうことに命の時間やその対価として得たお金を投じれば、戦争をしなくても世界は変わるでしょう。
勇気なども必要はなく、自分の日々の行動だけでそれが可能だと信じています。
毎日の食事が積み重なって、数十年後に健康な身体が出来上がるのとよく似ていますね。
小学生がコツコツ勉強し、世界を知る大学生になることともよく似ています。
今日何かをして明日、目に見えることはないかもしれません。
ですが、今日の一人の行いは、確実に明日の何かを変えるのです。
私は幸福な社会に生きていたいし、できるだけ子孫に責任を擦り付けたくありません。
せっかくなら、幸福で平和な社会の中で死にませんか?
今日も皆さんありがとう。
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