体現

言葉で表現するよりも、圧倒的に体現する方が難しい。

なぜならそこには覚悟と勇気がいるから。

何十年も貫くには強い意志が必要になる。

だからあえて私は体現したい。

前提条件として「ニンゲン」と生きていくつもりならば、ニンゲンは机上の空論やコピーアンドペーストよりも、その人個人の体現を信用する生き物だ。

仕事においての結果だけでなく、個人の成長、長年つくりあげた体、顔つき、子育て、夫婦関係など、生きざまが「体現」となる。

 

背中を見せるとよく言うが、親としてはこれしか教育の方法はない。

一貫して自分の親がとった行動を思い出してみてほしい。

そこから何を学んであなたは「自分」を確立させたのか。

 

子育てにはとても大きな学びがある。

まさに子は親の鏡

たくさんの気付きと学びを彼らから与えられた。

子どもに何かあれば、私はまず自分の生き方を疑った。

自分の選択を疑った。

自分の行動を疑った。

 

多くの失敗と、周囲で起こる事象により自分を顧みることはできる。

そうして修正をしながら、自分に嘘をついていないかどうかを確認して、反省して、時には周囲に謝って、自分の軸に添う生き方を確立していく。

これは子育てにとどまらず、日々の人間関係や人材育成についても同様である。

 

「同じ母語を使っている」という思い込みから、実際の個人の背景を考えずに人々は自分勝手な偶像を創造する。

言葉は確かにパワーを持つ時もあるが、大抵はあてにならない。

潜在的に誰かに違和感をもつとき、その人の口から出た言葉と心は一致していないものだ。

 

自分にとって優位な捉え方にして記憶にとどめることは幻想。

昨日までの過去を正当化するために心と裏腹のことを言ってもその違和感は相手に伝わる。

保身のために弁明する人の言葉もきちんと相手には違和感となって伝わっている。

誰しも経験があるはずだ。

 

その違和感を大切にしていれば、恐怖により知識で武装しなくても、自分の感覚でリスクは回避できる。

なので個人的には知識よりも五感と第六感を退化させないことが重要だと思っている。

 

本来、個々がどう生きるかは自由である。

押し付けを動物は嫌う。ニンゲンもしかり。

個々は生命との出逢い、もしくは自然との出逢いによって自ら学ぶものである。

これがいい、あれがいいという自分だけの価値観を、人に強制するものではないということを認識していれば、いちいち相手に見返りを求めたりはできない。

 

私は好き嫌いを表現している。

これは強制でもなく傾倒してほしいわけでもなく、単純に私個人の考えである。

学びとはニンゲンだけから得るものではなく、もっと広大な世界から宇宙から得るものだと考えている。

自らの感覚を研ぎ澄ませるためには、たとえ学者の意見であっても、先入観なしにゼロベースで考えることが必要だ。

自身も含めて人間ごときに生命の神秘がわかるわけがないと思っている。

 

いつまでたっても終わりが見えないからこそ、知的好奇心はおさまらないのかもしれない。

ただ、その知的好奇心さえもが過ぎた欲となってニンゲンの傲慢さを助長し、地球を破壊するものならば

わからないことはわからなくていい

という気持ちを持つことも大切なのではないかと最近は思う。

 

誰もが死に向かっている時の刻みのなかで

残りの自分の命をどう体現していくか。

 

誰の指図もうけることなく

誰の世界観に左右されることもなく

自由にしなやかに

幼少期から決めている軸を忘れずに

真っすぐに向かうことなのだと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

Sponsored Link
Pocket

0 comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です