現実の直視

コロナ騒動の直前、偶然にも繁華街のど真ん中から田舎に移住した。

おかげでマスクもせずに青空の下で4年間、畑仕事に勤しんだ。

まあでも世の中に偶然っていうのは無い。

起こることは必然だ。

多分、11匹のハムスターと真摯に向き合った結果、火事の前に逃げる鼠の如く、地球が与えたあの感覚が研ぎ澄まされただけだろう(笑)

 

息子がなぜあんなに短期間でああなったのか。

未だにその答えは完全には出せずにいるが、かつて息子が川崎病に罹患したり脊椎側弯症で歩けなくなるような状態までなった原因もなんとなく想像できている。

バカな私の判断ミスだ。

母が薬と病院が大好きだったこと、治るどころか次々に病気になって、最後には肝臓がん。

でも知らずにいた肝臓がんが破裂して助かり、うちで療養してたった2ヶ月で10年来のおできも全部消えたにも関わらず、相変わらず検査や治療が好きだった。

最後には輸血が必要だと言われ、その直後に亡くなったことも忘れない。

自分の想いを伝えきれなかったことも、過去に自分の判断が間違ったと思える哀しみからも決して逃げない。

コニーサンとココトゥンの大切な子供、チビタンを殺してしまったことからも。

どんな人も自分を信じているし、助けようと思っても実際には誰も助けることはできない。

現実の事象を直視することよりも、自分の頭の中のお話を優先するのがニンゲンだと思う。

 

だけどどんなに悲しくても辛くても、現実を直視した先にしか光はない。

逃げ続けるから闇の中。

どんなに暗く見えても逃げずに歩き続けていたらいずれ光が射してくるものだ。

だから知らずに何かに荷担してしまっている自分の馬鹿さ加減も、すべて直視しなくてはいけない。

幼少期、ニンゲンという生き物が地球の癌細胞にしか見えなくて、自信満々に胸を張っているニンゲンが摩訶不思議に思えた。

何のために義務教育があったのか(全部真実でないにしても考えるきっかけは山ほどくれる)

何のためにテレビがあったのか(全部真実ではないにしても考えるきっかけは山ほどくれるし、他国の事情も多少はわかる)

そして虐待された家畜を喰らったなら、今日その命を使って何のために生きるのか。

今もそのシステムの中で、荷担し続けている自分を許せないでいるのかもしれない。

その罪悪感を少しでも払拭するために、畑仕事をしているようなものである。

 

仮面夫婦が「仮面」であることは、当人同士だけでなく周囲も知っている。

綺麗事を話す人が「綺麗でない真意」を持っていることも、当人だけでなく周囲は皆知っている。

責任転嫁する人が「自分の心のバランスを取るためだけに報復しないと踏んだ目の前の善人に故意に責任を擦り付ける」利己的な人間だということも皆知っている。

本人だけが気づかれていないと思い込んでいる。

まるでピエロだ。

 

明日の事は明日にならないとわからない。

明日こうなると決めているのは自分で、もし明日も生きていたなら自分が決めたように行動するからそうなるというだけのこと。

こうなると決めるそのお話がユートピアに向かうお話なのか、ディストピアに向かうお話なのかの違い。

そのような数えきれないお話創りのが混在した世界が「今」を創っている。

自分だけなら、美しき緑の星でコニーサンたちやシェリーと草原を走って毎日暮らすのだけど、他者のユートピアは自分とはどうも大きく違っていて誰とも一致しない。

生きるには覚悟が必要だ。

 

 

 

 

人間ごときに生命の神秘などわかるはずがない。

自分のそのような馬鹿さ加減を心の底から直視したとき、初めて謙虚になれる。

今日も不自然な何かに荷担して殺して喰った命のおかげで生きていると自覚するからこそ、万物に愛を持てる。

ペットではなく出会った魂として動物たちと対峙し、土が育つ様を間近に見て、宇宙の仕組みを想う。

 

心の底から懺悔し、感謝し、愛することは、光に繋がっている。

生きるということに悲しみや痛みは避けては通れない。

逃げずに歩いて行った先に、後悔なき最期が在るのかもしれない。

 

今日も皆さんありがとう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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