動物的なヒトが好きだ。
日本のような細分化されたシステムの中で動物から遠くかけ離れた生活をしていると、自分たちが持っていたはずの力も感覚もどんどん忘れ去られていくように思う。
自分でできることはなるべく自分でする
幼稚園で先生に教えられたことだが、この歳になってコニーサン達を見ていてそれが腑に落ちた。
動物とは、本来教えなくても自分で自分のメンテナンスができるものなのである。
食べ物や場所なども、自らの五感で危険かそうでないかを察知し、身体にいれない、または寄りつかないということが出来るはずだ。
そもそも全員が自分で自分を守ることができれば政治も教育も要らないだろう。
群れるなら小さなコミュニティで充分で、縄張り意識の下に時に別の群れと闘うくらいだろう。
世界は大きくなりシステムを有難く使わせてもらえば、子孫を殺される確率が低くなったかもしれない。
だけどまだ人間同士の殺し合いはなくならない。
生きるとは殺すこと
動物とは多分殺し合うものなのだろう。
それが食物連鎖であるし、弱肉強食であるし、自然の摂理なのかもしれない。
栄華を極めたものは衰退する
文化でも進歩でもない、過ぎた欲が蔓延する社会は、何らかの形でいずれ崩壊していくだろう。
留まるものは澱む
どのような形に変化しても地球の流れとはそういうものなのかもしれない。
例えそれが歓喜の世界でなくても私達は受容していくしかないのだと思う。
過去の選択が現在を創る
できる事と言えば、今、自分が何を選択するか…それを吟味することだけなのかもしれない。
目の前で美しい羽を魅せて雌鳥を誘う雄鶏のように、交尾のために生殖能力のある女に群がる男たち。
本能から男に群がる女達。
それを愛と意味づけするニンゲン達……
何も持たずしてすべてを持っている
貨幣がなくても食べるものは地球にある。土地を囲わなくても地球は全生物の物である。
動物として本来持てる感覚を失わなければ、きっと私達はみな生命力に満ち溢れていた。
そうすれば、今日をめいいっぱい生きることができるのではないだろうか。
哀しみを受け容れる強さは本能であり
懸命に生きる姿は皆美しい
例え何かに命を奪われてしまっても、その瞬間まで煌いて生きること。
どんな形であれ最期まで諦めずに生きることこそが動物的なのだと思う。
優劣はなく善悪もない
生きることが命そのもので動物的なのかもしれない。
結局優れているのは進化して生き残る者だけかもしれない。
とするなら、善悪などあってないようなもの。
流れに乗る
例えば人災など、不自然に見えることが自然かもしれない。地球や宇宙目線で考えるなら、ニンゲン達は、自らの選択からこのような流れになっていく生き物だったのかもしれない。
誰かの言うことは正しくない
しかしすべてが正しい
自分ごときに何もわからない。ニンゲンごときに何も変えられない。
細胞のように周期的に生物は入れ替わるのかもしれない。
抵抗は無駄かもしれないし、革命かもしれないけど、それも生まれる前から決まっている全体の流れかもしれない。
だから
何もかもが美しい
そう思わざるを得ないのである。
今日も皆さんありがとう。
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