未来の予感は、いつも大まかにぼんやり視えるだけ。
詳細まで物語のように言えることはない。
例えば、いつ誰がどうなってこうなるとか……。
そこまではわからない。
でも「奇跡は準備ができた者だけに訪れる」に書いたように、エネルギーの流れのパターンや、そのものの最期(結論)のイメージは大きく変わらないものだ。
読んでくれた人は分かると思うけど、だからああ云えたわけで……。
そんな視点をもって日々生きていると、ふとした出来事でぼんやりしていた予見がはっきりと視えてくることがある。
「あれ?こうなったのか。じゃあ、未来にやって来る人はこの人じゃなかったんだな。では、誰だろう?」
そんな折、別の誰かから思いがけず連絡がある。
「まさか、この人なのか?」
ってな具合に。
良い事も悪いことも、皆そんな感じ。
一番やってはいけないことは、私的な感情に振り回されること。
例えば、個人的な恋慕による『執着』とか、何かを『欲しがる』こととか、現在のステイタスを護ることとか恐怖とか不安なども。
そういうものは目を曇らせる。
心を静かにして、全てを俯瞰的に捉えること。
宇宙から自分を眺める感覚で、なぜそう動くのか、なにがその流れを作っているのかなどに集中する。
ニンゲンだけに特化した理論は生物にとってはどうなのか。
日本だけの常識は海外では当て嵌まったかなど。
科学的に考えるだけでそういう視点は得られるものでもある。
そうするとパターン化されていることに気づいたりもする。
こう動けばこうなる。
ああ動けばこっちに行く、みたいな。
わかりやすく言うなら、ボールが転がるとどこに向かうか分かっているからとりにいけるわけで、ビリヤードの球がどこにぶつかれば他の球に当たるか計算できるような、あんな感覚。
かといって、皆が皆ビリヤードがうまいわけでなく、ボーリングでストライクを出せるわけでなく、それぞれの感覚分野で才能ある人がいるものだ。
勉強でも生まれながらの天才、努力による秀才、小学校の勉強さえ理解できない類がいるように、スポーツでプロになる人と、趣味で終わる人といるように。
いまや、視力でさえ4.0、2.0、0.01と大差があるように、全ての感覚は個人差が大きいことも否めない。
だから自分の視える世界は自分だけのもので、誰かと同じではない。
自分が重要だと考える才能について「スゴイ!!」だの「バカだ!!」などと決めつけているだけで、各々に何かしら強いものはあるはず。
好き嫌いは仕方ないかもしれないが、優劣は一様に決めつけられるものではない。
どこかの国で全国民の遺伝子を調査した結果、80%近くは親の遺伝で、残りは個人特有のものがあるとか。
それも同じ親の子同士でも、エピゲノムによって発現の仕方は変わるのだろうと思う。
子に『自分と同じ』『みなと同じ』を求めてもなんだかなあ……
話しは戻って、誰かが来る予感。
いつかは知らない。
誰かも知らない。
多分必要な人間だから『来る』のだろう。
必要なら此処に在って必要なければ淘汰される
逆算するとそうとしか思えないので、それは幸福の種。
だから幸せを有難うなのだ。
今日も皆さんありがとう
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