個人の価値観とは、その人が親から刷り込まれた思考回路や生きてきた環境、食べ物によって造られたものなどで絶対と言えるものはありません。
人間はとても弱い生き物で、少しの違いにストレスを抱え、時に相手を自分の思い通りにしようと強制したりもしてしまいます。
自由に生きるものを見ると排除しようとすることがありますが、それは自分が自由に生きていないことの正当化であったり、群れに背いて孤独になることに恐怖を感じていたりして、たいていその根源は本人の心にあります。
けれど、国籍や生きてきた環境が違っても通じるものがあります。
それが自然の摂理です。本質とも云えます。
雨が降ることに抵抗しても無駄で、太陽に逆らうこともできません。自然に逆らえばとんでもないことが起きるかもしれないと本能的にきっと誰もがわかっているでしょう。
それ以外のことは、自分が浅知恵で考えた思いこみであったり、誰かの創造した「シナリオ」であったりするので、常に自分の価値観を疑い、破壊していく作業に徹していないと謙虚さとは程遠くなり、簡単に他者を非難してしまいます。
ではどうやってその自然の摂理を見出すかと言うと、動植物などの他生物に畏敬の念を持ちひたすら見つめることが簡単な方法です。
謙虚さとは人間同士の中で無理矢理見出すものではなく、自分がこの何かよくわからない宇宙に生み出されたホコリのような存在だと認識した人にしか持てないものだと感じています。
自分の意見を言わずにおし黙ることや、他者の顔色をうかがい綺麗事で交わして笑うことは、謙虚でもなんでもないと思うのです。
植物が生きていなければ自分は食べることもできないのに、土をアスファルトで塗り固めてしまったり、動物たちは肉の大量生産のために閉じ込められ、食品ロスとしてまた大量廃棄されたりしています。
私達は動物ですから、生命には共通する何かがあるはずです。
例えば私達はみな、CやOやPなどの化合物ですね。それを取り込むために息をしたり食べたりして循環させているわけです。そこに優劣はないと思います。
生きるために殺すことは循環であり自然の摂理ですが、食べすぎて病気になる人が大勢いることは理にかなっていません。
もし、必要以上に繁殖させたりするとバランスが崩れないように自然が淘汰するのかもしれません。それが食品ロスであったり殺処分される動物なのかもしれません。
宇宙で生まれた我々は、自分で何かを決めて生きているようでも、結局のところ自然の摂理に押し戻されていくのではないかと思われるのです。
この世界に多様な生命が生きていることをベースとするなら、今それらを殺して生きているこの奇跡的な循環に感謝の念しかわいてこないでしょう。
人間同士の価値観の違いなどは、自然の摂理から考えると、もしかしたらどうでも良いことばかりなのかもしれません。
ならば、はじめから小さなことに拘ったりせずに、自然の摂理にそって生きる方が賢明です。
それは、自分が殺して血肉にしてきた命に対する懺悔のようなもので、他者に命を空け渡さず懸命に生きることでしか、その命は昇華しないと考えているのです。
だから、どんな人も誰かに強制されるべきではないし、たとえリスクがあってもその人の望むように生きることが最善なのだと思います。
地球が生かしてある命に、自分が偉そうにジャッジしないこと。
地球が淘汰した命にも、涙は流してもすべて受容していくこと。
それでも最後まで尊厳を失わないことで、私達の生命は生きた意味があったということになるのではないでしょうか。
今日も皆さんありがとう。
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