肉体が欲するものと魂が欲するもののギャップをいかに埋めていくか、私はずっとそんな作業をしていたように感じます。
多分、それは記憶にあるところの一、二歳くらいからで、自分が遊ぶことが優先ではなく、遠目に大人や子ども、人間全般を観察していたように想います。
私の持つ魂と肉体の乖離のイメージは、一個体でありながら、自分で自分をよくわからず、コントロールさえできていない状態。
たとえば、膨大な時間をかけて義務教育から果ては予備校や大学まで『勉強』したはずの日本人は、考える力を持っているはずなのに、食べすぎたり飲みすぎたりして身体を壊すことや、周りを不幸にすることがわかっていながら性欲に負けて不特定な相手とセックスすること、人間だけが創造したシステムをそれしか方法がないと思いこむことなど、摩訶不思議な現象で、これらはすべて、魂と肉体の乖離している状態にしか見えないのです。
動物を見ていてると、人間に強制的に閉じ込められ、虐待、殺戮されたり、実験されたりする彼らの魂を無視した生かし方は、もちろん乖離状態に見えますが、自然の中でたとえ草食動物や小動物が肉食動物に食われたとしても、その瞬間まで、彼らの肉体と魂が乖離してるようには見えません。
幼少期から、私は多分そんなところを見ていて、人間に大きな違和感を持ち続けてきました。とりもなおさず、自分でさえ乖離状態にあって、それをできるだけ失くすためにここまで来たように思います。
今でもまだ、完全にそれは埋まることはなく、道の途上にあることは自覚しています。しかしながら、過去に出会ったすべての存在のおかげで、それらはかなり狭まったように思います。
大切なことは、空を見ることでした。
風を感じて、樹々を見上げることでした。
種を蒔いて花を見つめることでした。
生命と真摯に向き合うことでした。
そして、自己の魂に問いかけることでした。
人間になど、この世界のことがわかることはないと思っていましたし、今もそれは変わりません。
誰の意見も正しくはないし、結局、世界というものは、自分のフィルターで見たものだけでできています。
人に教えることはある意味無駄な行為で、各々がたくさんの生命を殺しながら、自分の血肉として生かし、それを自覚し、単に死ぬまで生きることしかないと思うのです。
わざわざ魂と肉体を乖離させて、魂の求めるものをごまかし続けなくても、所詮優劣も正誤も善悪もないのだから、何にもとらわれず自由に生きれば良いのではないか、と私は考えるのです。
真実の追求などということを、子どもの頃からやってきましたが、現時点の私の感覚では
真実は虚無 リアルはファンタジー
これにつきます。
悲しみや苦しみは魂から乖離している状態。
魂に素直に生きていれば、人間たちがここまで苦しむことはなかったのではないかと思えて仕方ないのです。
優劣も正誤も善悪も、心配しなくても地球がジャッジするでしょう。
誰かがジャッジするなんて滑稽すぎるのです。
そんなことを考えながら、今日もまた
殺した命に懺悔と感謝をささげます。
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