人と揉めることがよくないとか、喧嘩はよくないとか、そんなふうに当たり障りなく生きることを良しとする風潮があります。しかしそれが得策とは言えない場合もあります。
お互いに本音で話し合ったり、ぶつかり合って進むとき、相手との人間関係は、金属と金属が熱を持って激しく火花を散らしながら反応して、融合していく様なイメージです。
ここでいう喧嘩とは、殴り合って相手に怪我をさせるとか、一方的に言葉の暴力を浴びせるとか、集団で一人を責めるとか、そういうことを言っているのではありません。
それは単なる精神の弱さや、愛のなさ、自分のストレスを誰かに擦り付けるような利己的な行為で、それを世間では、イジメ、犯罪、暴力、責任転嫁と呼びますね。
ここでいう喧嘩とは、互いに本音を出し合って、結果的に意見が食い違っても、両者ともにその違いを埋めるためのもがき、とでも言いましょうか、議論のヒートアップしたようなものというイメージです。
一方だけが言い負かすようなものではなく、互いに本音を出し切るというところが大切です。
これは、信頼し合っている相手としかできません。
信じることは愛すること
親子でそういうのありますか?
ご夫婦でそういうの経験してますか?
親友とぶつかることはありますか?
当たり障りのない綺麗事で済ます関係は、たとえ親子であっても、夫婦であっても誤解を誤解のまま放置し、先延ばしにしてしまうことがあります。時にそれで別離にまで発展します。
子どもが問題を起こせば、友達のせいにしたり、学校のせいにしたり、外に理由を求める親は数え切れませんが、先ずはしっかりと本音を吐き出させてあげることで、子供との距離は近くなっていくのではないでしょうか。
親が子供を信頼していないと、子供は本音で自分をぶつけることもできないません。親の威厳という言葉に置き換えた辻褄の合わない支配は、なんの解決も導きません。
どちらかの浮気で離婚に発展したり、すれ違いで離婚するときも、まずそこまでに議論を重ねているかはとても重要です。
喧嘩をするということは、わかり合いたいということの表れのひとつともいえます。
嫌われるのがいやだから…
揉めるのは疲れるので……
どうせ、聞いてもらえないから……
空気を読む、なんて言葉で一括りにする人もいますが、それは、保身か相手を信頼していないか、つまりはわかり合いたいと思っていないということかもしれません。
仙人が、未熟な道を辿っている若者を、笑顔で大きく抱擁するような関係ならば、喧嘩しようにも喧嘩にならない場合はあると思います。
でも大抵の場合、二人以上になればなにかしら相違する意見はあると思われます。
人間でも動物でも、誰かと共生している以上、他者とかかわることからは逃れられません。
排除されることに強烈な抵抗を示すのも、循環と共生から外れる孤独な状態だと認識しているからではないでしょうか。
お互いに本音で対峙しあうには、片方が相手を信頼して先ずボールを投げなければいけません。それに対して、相手が本音を言えるところまで待つ必要も出てくるでしょう。
もちろん喧嘩などしなくても、お互いに譲り合って、均衡を保っている関係性は素晴らしいと思います。
時間をかけてゆっくりとわかり合っていくような穏やかな関係は理想的ですね。
ですが、思いこみで相手の気持ちを決めつけていることも多く、本音をぶつけてみたら全く予想外の答えを返して来るということもあるでしょう。
コミュニケーション力の低下が叫ばれていますが、本音を相手に言えないということも、大きな要因の一つだと思います。
ただし、本音でぶつかりあったあとは、ゆっくりと相手の気持ちを理解する努力はしたいものです。
雨降って地固まる
喧嘩するほど仲がいい
恋愛であれ親子愛であれ、友情であれ、愛があれば、喧嘩はプラスに働くことも多いものです。
何かを抱えてモヤモヤしているならば、一気に吐き出して早急な解決をはかろうと私は考えてしまいます。大切な人には。
愛の一つの形態として、オススメしてみます。
今日も皆さんありがとう。
0 comments