自由と利己的

自由と利己的は以て非なるもの。

 

利己的に振る舞うことを「俺の自由だろ!」と声高に叫ぶ人がいますが……

たとえば無人島に流れ着いて人間が一人だったとしても、自分の都合だけ考えて特定の植物ばかり採取したら、バランスが崩れて食べるものもなくなってしまうかもしれません。

 

私達は地球の一部なのですから、他がうまく循環できるように自然の摂理には則らなければ、何かが崩れ、やがて自分や子孫が死にたえます。

 

自由とは、誰にでもできる簡単なことではなく、覚悟と勇気が伴うのです。

 

ここでいう自由とは人間社会で群れていくことにおいて一般的にイメージされる「自由」と「利己的さ」についてだと理解してください。

 

例えば、山に登ること。

 

これは本人の趣味で誰にも止めることができません。これは自由です。

 

例えば、誰かを好きになること。別れること。

 

好き嫌いの問題なので、誰にも止めることはできません。これも利己的ではなく自由です。

 

ただし、嘘をついて異性と会うというなど、自分を信じて待っている人に、それを故意に隠して己だけ楽しむ行為なら利己的といえるかもしれません。けれどもあなたより好きな人が現れたと伝えるならば自由を選択したと捉えることもできるのかもしれません。

 

言い訳や責任転嫁に「自由」という言葉を使うことと、「自由に生きる」こととは少し異なるでしょう。

 

自由には「爽快さ」や異論を唱えられない「仕方のなさ」などが混在しています。誰かが傷ついてもそこには怒りではなく悲しみを覚えるようなイメージです。

 

利己的な方は、爽快さは感じられず聞いた人に「違和感」が伴います。仕方がないというよりも、自分が都合よく使われたような「引っ掛かり」が残ります。自由を選択した覚悟というより、「安易さ」を感じたりするものです。

 

例えば森林を伐採すること。それが私利私欲のためだったとしたなら。

 

これは利己的に思えます。頭を使って別の方法を考えてもよいようなことを、安易に他生命を殺して自分たちの子孫の存続さえ危ぶまれる環境を自らの手でやってしまうようなことを自由だとは思えません。

 

ただし、先住民が雨風を凌ぐための建物を作ったり、ボートを作る為なら利己的とは言えないかもしれません。

 

どんな動物も自分のためにしか生きませんが、同時に他と関わって生きています。

 

人間以外の動物に、必要以上の欲を出して頭が狂うような光景をあまり見ることがないのは何故なのでしょうか。

 

自由とは人に隠すようなことではなく、誰からも責められるものでもない気がします。

 

水が流れるように、想像していたものと違って激流になったり、枝分かれして別の場所に道をつくるようなイメージで、抵抗はかかりません。

 

抵抗とは嘘なのかもしれません。

 

自分を正当化したり言い訳をしなくてはならないような「抵抗」があるものは自由ではなく、牢獄に捉えられたままの不自由さとも考えられます。

 

自由な人は常に裸のような生き方をするものです。

 

言葉はあてになりません。自由であれば、自分で自分に言い聞かせる必要もありません。

 

ただし、広義でとらえるなら全ての生き物は利己的で、利己的に生きるということも自由です。

 

自分が決めて選択した道なら、正当化や言い訳をして自分の心に抵抗を生むこともないでしょう。

 

自由を選択するには、覚悟と勇気が伴うのかもしれませんね。

 

今日も皆さんありがとう

 

 

 

 

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