とどのつまり好きに生きればよいわけで

誰かになにか思われるとか、そんなことばかり考えて、毎日人の目ばかり気にしている人は自意識過剰である。

 

誰も誰かの人生なんて見ていないし、人はそんなに暇じゃない。

 

自分が逐一他人の人生をチェックしていないのに、どうして自分だけが見られていると勘違いしてしまうのか。

 

たくさんの命を殺して生きてきた自分の人生を、やりたいことも出来ずに誰かに合わせて生きるなんて、狂気の沙汰ではないか。

 

何も、孤立するような殺人鬼と化せと言ってるわけではなく、人として最低限のモラルを守れば、好きに生きても先進国ではさほど問題ない。

 

この最低限のモラルの境界を判断できるか否かは別として。

 

やりたいこともできず、言いたいことも言えず

「誰かが僕を見てる、私を見てる」

と思い込んで雁字搦めの人生を送るのか、自分の人生なのだから、誰かの決めた価値観に振り回されずに生きるのか。

 

人々の苦悩に満ちた顔を見ていると、誰も強制していないのに

「〜ねばならない」

と必死に自分に言い聞かせ、他人の家庭を見て、他人の子を見て、それに負けじと競争し、疲弊している。

 

人は必ず死ぬ。

 

明日何が起こるかわからない。自然災害、事故、戦争、病気……

 

死ぬときに後悔のない毎日を。

 

人間の創造したシステムだけを正しいと思いこむなど、せっかく義務教育を受けさせてくれたのに、活用できていないように思う。

 

これだけ勉強して、これだけ数がいるのだから、高い知能の人々が集結すれば、地球と共生して長期的に確実に子孫を遺す方法を考えられるのではないか。

 

時代は変わる。

 

せっかく生きているのなら、淘汰される側ではなく進化して生き残る側に動いた方が面白い。

 

そんなことを考えていると、戸籍というアカウントがいったい誰のために何のために必要なのか。

 

と考えていた8歳の頃を思い出す。

 

きっかけは黒人奴隷の実話。

 

自由

 

平等

 

友愛

 

そんな世界を創造できるのが、ホモ・サピエンスであってほしい。

 

 

今日も皆さんありがとう

 

 

 

 

 

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