人の言動、行動を見ていると、その人が本当は何を望んでいるのかがわかってくる。
たとえば、自分が失敗したということを潔く認めることができない人は、近くにいる一番善人だと思える人に責任転嫁する。
決して自分に報復しないとわかっている心優しい人を見つけて、自分の心のバランスをとるために、責任を擦り付ける行為だ。
その人々は全く弱い人などではない。
無関係な人を瞬時に探して、己のストレス回避の為だけに責任を擦り付けるのだから。
また、好きと正しい善とを混同してしまう人も多い。
相手が酷い事をしても、善であったり、正しかったり、優れていると言い聞かせ、好きという感情を保とうとする。
男依存している女性によくみられるパターン。
多分そうしなければ、自分の愛が揺らぐのだろう。
つまり、本当は愛していない。
大抵の場合、自分の定義する善・優・正でなければその人を認めることができない。
だから、関係性を留めるために正当化させなくてはいけない。
つまり言い訳だ。
愛していることに言い訳は必要ない。
そもそも、なぜ地球が生かしてある生き物の存在を認めないのか?
関わる関わらないは自由だけど、存在をジャッジすることは出来ない。
存在を認めることは愛である
地球が生み出した一生命、一個体を、同じく塵のような一個体である自分が正誤や優劣などをジャッジしてしまうなど傲慢。
もちろん嫌いな人間はいる。
しかし、勝手に生きてらっしゃるし、それをジャッジする必要もない。
互いに嫌いなら関わらなければよいだけで、それ以上でもそれ以下にもならない。
私が私の道を歩くように、相手は相手の道を歩く。
至極当然のことである。
人をコントロールしたがる人は、潜在的に自分を誰よりも素晴らしいと思っているか逆に劣っていると思い込んでいるからジャッジする。
また、嘘をついたり隠したりする行為も、その本人自体が、はじめからそれが自分にとっては問題だとわかっているということだ。
問題がなければ、人は正直になれる。
嘘とは、他者だけでなく、何よりも自分に対して嘘をつく不幸な行いだ。
例えば綺麗事などは、自分の心の声は綺麗ではないとわかっているから、綺麗な言葉にして隠す。
しかし、心の中では逆の想いがあり、嘘をついている意識を持ち続ける。
だから、幸福そうじゃない。
自分の人生なのに自分に嘘をついて生きていくなど、自分の命を永らえるために殺したすべての命と先祖に対しての冒涜で、いくら墓参りをしても先祖供養にはならなさそうだ。
嫌なら嫌と言えばいいし、好きなら好きと言えばいい。
この世に善悪はないし、誰も誰かの人生を強制する権利はない。
福沢諭吉のいうように
天は人の上に人を造らず
たかが生物の一種である人間が、真実などわかることはないだろう。
分解してその造りを説明できるのは、それを創造したものだけだ。
人間がこの世界の生物を創ったわけではないとしたら、人間が生命の真実をわかるわけはない。
人間たちは自分で自分の細胞さえ管理できていない。
まず、私達が気づいたほうがよいのは、自分でも自分をすべてわかってはいないということだ。
いまこの瞬間、マクロファージに戦わせたり、がん細胞を消したり、赤血球を作ったりしていても、そんなことさえ感じることもできない。
自分で自分のことすらコントロールできないということを自覚すれば、人をコントロールしようとは思わないし、人を排除しようとも思わないはずだ。
誰かに何かをおしつけるまえに、自分のことを徹底的に知るだけで、多分一生を費やしてしまうだろう。
心から自由になって笑って生きていたい。
今日も皆さんありがとう
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