随筆 117

何かを考えるときの思考の深さの度合いで、世界は分断されている。

表面的なことにとらわれすぎていると、議論してもまた表面的な別の何かに置き換えるだけで、決して根本的解決にはならない。

深堀していくのは忍耐を要するし、時間もかかる。

時に、忍耐力のない人々の批判のや粗探しの対象となったりもする。

昨今、民の為に行動していると思われるような人間が、逆に民に批判されまくり黙って耐えている姿をみる時、浅薄さはある意味罪でもあるかのようだ。

彼らに愛は通じない。

 

しかし結局は、誰も誰かを助けられないということなのではないか。

何年労力をかけたとしても、受け取ったふりをするだけで、適当にそれをドブに捨てるものもいる。

まず相手の命の時間を無駄にしないために不必要だと伝えることが先決だろう。

何も聞かなくても違和感を覚え、箱の外が視えるものもいる。するとそこに誰かがいる。

皆、自然と信じあう仲間と出会っていく。

いままさにそういう時代で、前者も後者も当然のように自分の意識に合った世界に引き込まれていく。

 

前提条件が『皆同じ』であるという思い込みによってでしか通じない理論がある。

この前提条件を『同じではない』にかえればどうだろうか?

共生できないという意味ではない。

地球が生かしているのだからどちらも必要なのだろう。

ゴキブリからヒトまで優劣はつけられないし、どちらがどうという話でもない。

人はそれぞれ自分で選択した道をとっている。

分断は自然である。

いまヒトに視える生き物は皆同じではないかもしれない。

ドブネズミとハムスターのように。

遺伝子組み換えのトウモロコシと在来種のように。

見た目は似ているが同じじゃない。

わずかな差異がやがて全く異なるものになるかもしれない。

住居や肩書や権力の事ではなく、潜在意識の世界の話だ。

民は一つという前提条件がもはや古典的なのかもしれない。

 

もはや誰も誰かを助けなくてよいのではないか。

学びや気づきを他者が奪うのも違う。

必要ならひとりでに必要な生命と出会うので心配は要らないだろう。

誰も来ないということは誰も必要ないということ。

虚構が醜いと思えば虚構なき世界に住み、嘘をつかなければいけないと思い込んでいるものは、綺麗事を死ぬまで吐き続ける。

 

思考はいつも現実化する。

願望はそれとは似て非なるモノ。

言葉遊びのようなもの。

 

いい加減思い込みはやめてササっと幸福になればいい。

いや、それぞれ自由に考えているのだ。

起こることは必然。

 

哀しみは捨てて、さらっとサヨナラしていこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

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