随筆 145

勉強は金の為にするものでもなく、自分の為にするものでもない。

社会の為にするものだ。そう言って子供たちを育てた。

 

義務教育において皆同じ教科書で同じ指導要領で学んでいても、運動の得手不得手があるように、勉学においても得手不得手が在る。

首席を取るような学力を有する者は、その才能を当たり前に思わず、天から授けられた使命だと心得るべきだ。

スポーツの業界においても、音楽の世界においても、職人の世界においてもなんでも同じで、世の中には天から与えられた素晴らしいタレントを持つ人がいる。

それらの人々は、多分皆、同様に社会の為にそのタレントを活用していると信じたい。

また、個人の持てる先天性の美しい魂も才能のようなものであると思う。

90歳になっても100歳になっても、たとえ認知症であったとしても、魂はずっと変わっていないのではないかと思われる。

赤ん坊の頃にその体に宿った魂と、何十年か生きた自分の魂に、なんら違いを感じないと皆自覚しているのではないだろうか。

運悪く環境に恵まれなかった人々が一時期ヤケになったりしたとしても、ある日、誰かとの出会いで劇的に変わったりすることがある。

あれは、本来の魂にとりまいていた余計なものがそぎ落とされただけで、元来その人の持てるものが顕在化しただけであるように感じる。

 

得た知識を並べ立て、いくら綺麗に飾っても、魂は変わらない。

誰かと対峙する時に見なければいけないのは、身なりでも肩書でも知識の量でもなく、魂である。

美しい魂を持つ生き物が、光を強く放つように思う。

 

自分の子よりも自分を守る親は、動物以下だ。(動物たちごめんなさい。ニンゲンは生物の中で一番バカだと幼少期から知っています)

我が子よりも日本銀行の刷った券が大事などという親は、感覚器の劣化してしまった生き物に視える。

自分の子に喰わせるよりも自分が良いものを食べたい親も同様。死ぬ順序を間違っている。

我が子を虚栄のためのアクセサリーにしたり、子の幸福より自分のストレスの軽減に重きを置き、子の人生をコントロールするような親もしかり。

生まれた時から魂がそれなのである。

誰かの魂を牛耳ることができると思い込んでいるのかもしれない。

自分たちでサピエンス=賢いと名乗っているところがさらに怪しい。(笑)

 

魂の宿る細胞は、どんどんくたびれて時にアポトーシスを起こしたり癌化したり、人間の創った毒に冒されたりするかもしれない。

結果、よくわからないことを話したり、身体が麻痺したり目が視えなくなったりするかもしれない。

でも魂が美しい生き物は、死ぬまでずっと美しい。

宿る細胞の集合体がどんなに汚れて視えても、不具合を起こしていても、魂を視れば多くの生き物は美しい。

赤ん坊の頃、幼少期の自分を思い出してほしい。

何をしていたか、考えていたか。

何十年生きても軸は変わっていないだろう。

自分の魂がどういうものか、はっきり自覚できるはずである。

もしも今、後天的な環境因子によって無駄な鎧を着て動いているのなら、ぜひ裸の自分に戻っていただきたい。

地球が美しくなるには、そこに生きるひとつひとつの細胞、つまり私たち生き物が美しくなくてはいけない。

 

悲哀の世界を創るより、歓喜の世界に生きたい。

闇は夜だけで結構なのである。

天から授けられたタレントを持つ人々は、いまこそ社会のために使うべきなのかもしれない。

魂が美しい人々はそのように生きることができる。

生まれたものは死ぬ。

サピエンスもいずれ絶滅する。

終わり良ければ総て良し

せっかくだから才能を使おう。

 

いずれまた異なる生き物が台頭するだろう。

次に台頭するものたちは、どうか美しい生き物たちでありますよう。

 

美しき星に。

輝く地球に。

 

今日も皆さんありがとう。

 

 

 

 

 

 

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