随筆 147

儀式というようなものは、自分の為にやっているのだと思う。

母が逝って、それに伴う一連の儀式を毎日行っている自分や家族を俯瞰的に眺めた視点。

それらは、何らかの行動によって自分の心を落ち着かせたり、納得させるためにやるようなものだと捉えている。

 

けれども、誰かのお話をコピペし、心底信じている人も大勢いるようだ。

なぜなら、凡ては人間の創作に過ぎないお話を、まるでそれが正しいと言わんばかりに価値観の異なる誰かに罵声を浴びせるニンゲンがいるから。

その時の驚きを数値化して見せてみたいが、きっと相手には伝わらない(笑)

視野をぎゅっと狭めて、その世界観で生きた人生を想像し、相手の立場を思いやって、ある地点で話を合わせていくことが必要になってくる。

その愛もそういう類には伝わらない。

 

想像していた通りのことが起きる。

真実は虚無 リアルはファンタジーを覆してはくれない。

面白くない。

 

生きている人間の世界を視る。

喰うものを誰かに作らせて、着るものを誰かに作らせて、住む場所を誰かから買ったり借りたりして、水も火も他人任せで、とても暇になった人間が求めるものが『愛』や『幸福』なのだとしたら・・・・・・。

やはり先進国民は傲慢である。

誰かや他生物の犠牲の上に成り立つ自分の『いま』を、感謝の気持ちもなく

もっともっと

さらに幸福に

などという思考を持ったところで、成るわけがない(笑)

 

自分の意識が自分の世界を創っている。

その傲慢さは平和な天国とは縁遠い。

地球の他生物を人間だけの都合で殺したり増やしたりするから環境のバランスが崩れるのだろう。

出来る限り傲慢さを捨てていくことで、幸福度はあがっていく。

自然の摂理。

 

愛しているなら相手に自由を与えたくはならないか。

コントロールしたい生き物に果たして愛はあるのだろうか。

「あなたの為」「誰かのため」って 本当だろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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