随筆 158

朝4時半に起きて、土鍋で米を炊いて、お弁当のおかずと朝ごはんの準備を同時に始め、母が亡くなってからは、まずは仏飯をお供えという流れに変わりました。

昨日の仏飯は米酵母に。庭と畑に地道にまいてみたり、パンの酵母にしてみたり、お米を作ってくれた人にも地球の恵みにも、また働いて貨幣と命を交換してきてくれた娘や同居人のためにも、仕事には必ず愛を込めます。

二階と一階の部屋全部、廊下、玄関の拭き掃除とお風呂掃除や洗濯を終えてもまだ7時だったので(既に皆出勤済み)今朝は髪を染めました。

雨の恵みで畑の水やりは必要ないけれど、草抜きには行かなくてはなりません。

昨日は濡れながら収穫と草抜きをしてきました。毎日やっても終わらない作業なので、よほどの大雨でない限りは様子を見に行く必要があります。

水だけあれば育つものではないのですよね。

無農薬や無化学肥料の農法だとしても、『自然』ではなく『園芸』なのだなと思うこの頃。

やはり行動したものだけが得ることってありますね。

個人的には、農業は人工的過ぎて、熱帯の樹々から落ちたフルーツを食べる方が自然で好きです。

ライムを拾ってジンジャエールに搾った日々が懐かしいです。

拾ったマンゴーを鞄に忍ばせ、休憩時間に食べた夏の日が忘れられません。

 

植物との共生を人工的にするのなら、私にとっては断然バラなのです。

畑作業に多くの時間をとられ、バラの手入れが充分できず、今年は初めて花が咲かない株が多数でました。

毎年楽しみにしてくれていたオールドローズのブーケが作れず、亡くなる直前、母の日に鉢植えのカーネーションをプレゼントしました。

とても残念です。

市販の花では農薬の匂いで気分が悪くなる母に、15年前からずっとオールドローズのブーケを持参してきました。

母が亡くなり、荷物の整理をしていると、その長きにわたる母の日のブーケのバラをポプリにして、箪笥の各引き出しにサシェとしていれてありました。

そんなに大切にしてくれていたのだとは知りませんでした。

 

とは言え、この村はとても美しく、おかげで何処かへ旅行したいなどという気持ちは湧かないのですが、それはやはり自分が生粋の都会人だからでしょう。

都会がスタンダードゆえ、このような美しい風景はリゾートにいるようなものです。

どれだけ年老いても何処にいても自分のルーツを変えることはできないのだと思います。

そのルーツを受け容れず自己否定するニンゲンの傲慢さと、その命となって虐待殺戮される家畜やペットと呼ばれる美しい動物たちが対比します。

 

今の黒いエネルギーに流される人たちは自分が生きていることにどれだけの生き物の命が関与してきたか(人間含め)理解できているのでしょうか。

それともわかっていてもなお、自分さえ良ければいいと考える生き物なのでしょうか。

傍観者でいれば自分は安全だと本気で思考しているのでしょうか。

それとも思考回路の多くが誰かの思惑通り退化してしまったのでしょうか。

 

継続する人には視えるものが在ります。

記憶を失わなければ気づくことがあります。

ニンゲンがとても馬鹿だと知っているニンゲンなら想像できることがあります。

それを駆逐するのはファンタジーしかないでしょう。

 

必ず死にます。

身体と意識の誤差はあったとしても。

 

誰がどこで何をしていても

自分は一つ一つ丁寧に命に向き合い

闇に葬られるモノに涙を流し

生きて死ぬだけのことでしょう。

 

 

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