随筆 159

幸せの定義はひとそれぞれ。

心から万物に感謝する永遠の幸福もあれば、何かを手に入れないと幸福になれないニンゲンもいる。愛されたいと欲し続けるその執着を手放せないニンゲンは死ぬまで不幸だけど、表面的な誤魔化しで生きているようにも視える。どちらにしても共通するのは本人の意識によるものだということ。

本当のことを言えば嫌われると思い込んでいるニンゲンは顕在的な自己と潜在的な自己のギャップに死ぬまで違和感を持ち続ける。事実嫌われるのかもしれない。でもそれは多分現時点も愛されていないということなので結果はあまりかわらない。愛されている人は本当のことを言っても相手の愛が変わらないことを知っている。

また消極的な自分が、多くの人と関わっていないから『砂漠の中の米粒』と出会えていないだけなのかもしれない。大切なことは自分の在り方であり、自己を受容するほか道はない。

モテる人はいくつになってもモテるものだ。80を超えて半身も麻痺していてもやはりモテる(笑)

ある動物行動学の書籍で、実験動物として閉じ込められていたチンパンジーの雌が、身体がボロボロになり年老いていくのに、新しく連れてこられる若い雄にやっぱり一番人気だったという下りがあった。

ニンゲンも同じだ。

生殖能力がなくなっても関係ないようだ。愛される人は泉のような愛の源を持って生まれてきている。生き物は皆そこに惹かれるのだろう。どんなに綺麗な言葉でごまかしても、笑顔を作っても、意識はきちんと相手に伝わっている。頭で理解できない人にだって伝わっている。それを言語化できる人間はそういない。

生物の一種ニンゲンにすべてを理解できるわけもないので、わからないことはわからなくてよいと思う。

自分の運命を素直に受け入れている人は他人にどう思われようが言われようが自分軸で、ぶれずに幸福を貫く。虚栄や承認欲とは縁遠く、静かに我が子を見つめているような穏やかさがある。浮草のように静寂で平和だ。

欲に苛まれ浅薄な思考で他者をコントロールしようとする人間の笑みは常に澱んでいて、その透けた仮面の下の顔は悪魔さながら利己的さを露呈する。自分では誰にも気づかれていないと思い込んいるようだが、思考回路の数は皆同じではない。自分より1本でも多い人にはその虚構は瞬時にみぬかれる。虚構を重ねれば重ねるほどに自己の馬鹿さ加減を上塗りしていることに永遠に気づかない。まあそれも生まれ持ったものだ。単に種が異なると思わないとこの世界ではやっていけない。

動物たちに倣い、無駄な争いにエネルギーを使わないことが賢明かもしれない。邪魔をするものには『威嚇』し、天が与えたシックスセンスで(強弱はあろうが思い出そう)闘って得をする相手かそうでないかをわかるくらいの見識はニンゲンなら持てるだろう。

田舎移住し、引っ越し先も告げず、以前にもまして人から離れ、お金もどんどんなくなっていく生活だが、その分自己完結力を高め続け、役割分担を徹底し、生活の質が格段に上がった。贅沢な時間を過ごしている。

先日、久しぶりに地元界隈の美容院に行き、中学生の頃から飲み歩いた街を一人ぶらついてきた。残念ながらその人工的オアシスにもホッとする自分がいる。もし社会がここまで悪意に満ちていなければ、今すぐ都会の生活にも戻れる。

もし世界が平和的かつ民主的な議論を重ね、利己的でなく地球生物との共生の最善を追求し続けられるリーダー達で創造されるなら、『美しき緑の星』は可能だろう。

ただ・・・・・

生まれたモノは全員死に向かっている。種も同様に絶滅に向かう。結局この社会の変化は『自然』なのだと思う。

包括的な視点を持ってして、その『自然』のなかで何に歓喜し何に悲哀し、美しく生きて死んで逝くことに自己のエネルギーを使うことが良いのかもしれない。

世界観の異なる人は、自分の次元の外を流れているように視える。

静寂な至福は余計なものを持たない人にのみ訪れるものかもしれない。

 

今日も皆さんありがとう。

 

 

 

 

 

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