世間はGWですね。
うちは2013から正月も盆も関係のない生活になりましたから、祝祭日に疎いです。
移動出来たり、遊びに行ったり、体調不良になったり、事件を起こせたり、食に関して他人にお任せできるということは、その時間も休まずに働いている人々がいるってことですね。
多分半数くらいは働いているのですが、残りの半数のいったい誰に基準を合わせているのかなって、いつも不思議に思います。
全員が日曜日を休息日とするとか、ラマダンのように全員が食事をしない、などの宗教的要因で決められた期間でもない限り、半分の人々に合わせたものが「当たり前」的な話をしてくる人とは話がずれてしまいます。
少子高齢化のわが国では、子供の休みに合わせた話も一部の人々の価値観でしょうし、高齢者においては毎日休日の人も多く、これもまた合いません。
事実、家族の中でも半数は盆正月関係なしで、半数は普通に土日休みか日曜休み時々当番で出勤的なものです。
なので、お付き合いする人には「いつ休み?」と聞いてから予定を合わせるのが普通となって久しいです。
何も言わない人には当然土日祝が休みの体で話しているのだなと察知して、それを前提に話します。
元日から顧客のところに来てくれと呼ばれ仕事をしていた時もあり、相手が一次産業従事者などの場合、365日休みなしだったりするので自発的な感覚が近くテンポが合います。
小学生の頃からすでに、大人たちが信じて疑わない「年金」や「定年」を疑っていた私は、年齢とともに自給率をあげ、仕事は絶対に自分で創らなくてはいけないと思っていました。
早くから老後の資金を心配する人々の「視えない恐怖」に費やすその時間が無駄に思えて、まったく興味を持てませんでした(笑)
その代わり、日々の食や活動においては、10代から定期的に精査して、老化退化劣化に対抗すべく、しなやかに変更していくことが重要かなと継続してきた次第です。
身体も人任せにしないことが良いですね。
そんな風に生きていると、究極、戸籍も面倒になってきて、別にあってもなくても困らないし、名前もなんでもいいし、でも確かに此処に在るし、愛し合えるし、幸せだしって、コニーサンたちと過ごすほどにどんどん執着がなくなっていきました。離婚も再婚も何度もしてみましたが、誰に代えても同じ。契約書が面倒なだけです(笑)
その時々で共生できる相手と共生していけばよく、相手は男でも女でも若くても高齢でも関係ないと思います。
富とは裸になっても持てるもの
これは小学生時の私の言葉ですが赤ん坊のころからそれを忘れなかったという単純なもの。
システムを作ってくれた方にはこうして安全に生きてこられたことに深謝していますが、そんな崇高なものを創ってもいない自分なので、権利を主張しない代わりに放っておいてくださいましという価値観も同時に存在します。
先日の研究会でもお話ししたんですが、私は幼少期に都会の真ん中でみていたゴキブリや雀のように生きて逝く所存です(笑)
愛すべき地球へ
万物に感謝
0 comments