随筆 46

どんな出会いも、自分を通してしか見ることも、感じることも、触れる事もできない主観的なもの。

昨日の随筆に書いたように、今日も突然ある人を見つけた。

今まで知らなかった人。

きっとこの人は私にワクワクするものを運んできてくれる。

どんな存在も、世界も、自分を通しての主観的なものだ。他者からみたそれとは、全く違って見えているはずなのだ。

黒い噂があったとしても、私に光であるならば、私の周りにはいい人しかいないということになる。

100人がその人を嫌っていても構わない。

自分にとっての良い人を、たとえ誰が嫌ったとしても、私が好きであることをやめる理由にはならない。だから、私が誰かに紹介する人はいつもいい人しかいない。

男女年齢関係なく対等にお付き合いするので、時に男性には勘違いされるが、好きだけれどオスではない。握手してもハグしても、彼らは私にとっては女性や子どもと何も変わりない「ニンゲン」なのである。オスとして自分が認知する人は初対面ですでにオスで、ニンゲンと認知した人が後々オスに変わることは残念ながら皆無である。

すべては直感が判断していると思われるので、私はそれに従っている。

主観的なものを世界と捉える人は、他者のそれを自分と同じものだと思いこんでいる。

誰かと出会う目的が金とセックスの人は、他者もそうだと思い込む。誰かと出会う目的が、孤独の穴埋めならば、他者もそうだと思い込む。そういう時に勘違いが起こってしまって面倒なことになる。

私がワクワクする人は、知を運んでくれる人である。だからこの数年でそれを与えてくれた最高の存在である、ココとコニーサンとの出会いには心から感謝している。

いまや何もかもが虚無だと思っているのだけれど、それでも記憶に遺る香りや、誰かの笑顔や、美しい景色はその虚無の世界を煌めくものに装飾してくれる。

なにかに必死になっている人の汗や、もがいている人の背中や、ゴミ袋をつついて食べ物を探すカラスでさえ愛おしい。

生物たちがみな、未来に絶滅したとしても、確かにある瞬間、共にこの世界に生きていたという事実は、やはり素晴らしく美しいものだとしか思えない。

主観的な世界を、忠実に目の前に物質化できて、それを他人にも見せることができたなら、きっと皆、それぞれの世界が違いすぎて驚くのだろう。

外で雀が餌をついばんでいる。

万物の恵みと地球上のすべての存在に奇跡を感じながら、今日も生命を感じることにしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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