目標や目的が定まらず、自分で決めたはずがすぐにブレてしまう。
何を選択していいのか、誰を信じていいのかもわからない。
そんな人は多いだろう。
本来は自分で自分の命の責任をとることが動物としての道だ。
だけど、ニンゲンは死を必要以上に恐れ、加えて支配欲や虚栄心がそこに交じり、子どもが考えても矛盾することを「正当」だと言い張ったりしてとても厄介だ。
でも冷静になれば、気づくことがある。
自分が何かの目標を立てる場合、もしも自分だけでやりきることができないとか判断できないとき、多分子どもたちは素直にあることを実行している。
例えば幼稚園の頃、クラスで一番早く自転車の補助輪を外して乗れた子がいるとする。
皆はその子に注目し、観察して真似をする。結果、次々に乗れるようになる。
小学生の頃、先生に質問された時にいつも答えられる子がいるとする。テストは当然満点だ。勉強ができるようになりたいと思う子どもたちは、わからないことがあれば、その子に尋ねるし、教えてもらう。
親の言葉を信じてみるも、辻褄が合わないことがあると思春期くらいに気づく。親の矛盾を突っ込んだとして、腑に落ちる意見を親が説明できないときに荒れるというのが反抗。親が納得できる意見を、誤魔化さずに正直に話すことができれは、子どもが親に反抗したりはしない。
とてもわかりやすい。
大人になると何故か、その辺がわからなくなるようだ。
ある分野で結果を出したいと目標を立てたとしよう。ならば、その分野で結果を出している人のところへ行ったほうがいい。
人それぞれ目標も目的も異なる。同じコミュニティにいるからといって、目的が同じとは限らないので、自分と目標や目的が合致する人を目指したほうがいい。
お金儲けをしたいなら、お金を稼いでいる人のところへ行くほうがいい。
癒やしてほしいなら、ヒーラーのところへ行けばいい。
モテたいならモテている人の話を聞くべきであり、恋愛経験もさほどない若いアルバイトライターが書いたインターネットの記事はまったくあてにならない。
人材育成力を管理職に求めるならば、その人の子どもや家族を見て判断したほうがいい。
親子関係をよくしたいなら、親子関係がうまくいっている人から話を聞かなくてはいけない。資格などは当てにならない。
健康を求めるなら、高齢の健康な人に教えをこうべきだ。
美しさを求めるなら、年齢を重ねた整形していない美しい人に習慣を問うべきである。
つまりは、自分の目標とする結果を出している人の意見を参考にすることが望ましい。
人格者になりたいなら、ブッダやキリストのように生きればよい。
形にとらわれ参考にすべき相手を間違えると、目標とする結果からかけ離れてしまうことがある。
目標があるもののなかなかうまくいかないという場合は、自分が誰を基準にして判断しているのか再考してみたほうがいいかもしれない。
大切なのは自分が目指す「道」とはどんな道なのか、そしてそのイメージ像を明確にすること。
自分の道と師の道が異なっていれば、到達地点は、当然自分の目的地には着かない。どんなに目指したところで何の役にも立たないこともあるし、どちらも命の時間を無駄にすることになる。
命はいつ終わるかわからない。
先延ばしにするも自由、流されるも自由だけれど、もしも目指す目的地があるなら、立ち止まって確認することも大切だろう。
今日も皆さんありがとう。
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