美しくなる食

○○がアンチエイジングによいとか、本当は栄養学は間違いだらけだとか、糖質、グルテンに至るまで、情報はたくさんあります。

結局、何よりの富は

健康で、それが叶わないとかなりの制約がかかってきます。

 

でも意識からの事を考えるなら、栄養素を見る前に、ビタミンやミネラルの働きを学ぶ前に、外見を取り繕う前に、

私達は別の命を殺して自分の中に取り込んでいることを知らなくてはならないと思うのです。

 

栄養素にフォーカスしている人は、栄養素だけをみてサプリに価値を感じます。

命にフォーカスしている人は、その植物や生物が自分の口に入るまでの過程を想像します。

 

例えば途上国で農民が労働し、作物価格を安く叩かれ、輸出され加工された綺麗なパッケージのモノを店頭店頭で買うのかどうかとか。

生涯外に出ることもなく、朝から晩まで卵を産まされる鶏や、まだまだ生きることのできる豚をあっという間に殺したり、肉を柔らかくするためだけに去勢したりしている結果の食べ放題であるとか。

そんな過程をもし考えることもないとしたら……。

お腹が膨らめばなんでもいいとか、たくさん食べておきながらダイエットするという矛盾。

命に対して畏敬の念のない取り込み方をずっと続けることになります。

そうすればそれは、美しさとは程遠くなるのではないかと思うのです。

 

また家族が外で働いてきて、その命の時間を貨幣という物質と交換している場合、まさか添加物だらけの身体によくないものや、面倒だからという理由だけでおかしな食品にそれを投じることはできるものではありません。

結果的にそれは、働き手の命の無駄遣いであり、選択する時間に費やす自分の命の無駄遣いであり、またそれを家族が食べるという行為そのものさえ無駄であると私は感じます。

自然治癒力が高い人々は特別な体質を持っているのではなく、何十年と続けてきた習慣の結果なのではないでしょうか。

海外のものをいただくときは、その国の農業従事者に感謝し、届けてくれた企業に感謝し、その生命の恵みに感謝し、それを引き寄せたことに歓喜します。

家畜の現状を知れば知るほど肉は食べたくなくなり、食べる機会も少なくなりましたが、決して肉食が間違いだとは思っていません。

うちの愛すべきハムスターが次々と逝くなかで、彼らの亡骸をバラの土に埋めて、そのバラを翌春に化粧品やハーブティーとして取り込むことを考えていますが、本来は毛をむしって、彼らの体ごとスープにでもして私の身体に取り込んでしまいたいくらいなのです。

どうしても生きるために、動物を殺して自分の中に取り込むことは、食物連鎖としては当然の成り行きだと考えますが、事足りているのに食欲を止められず、無作為に食べることとは一線を画すべきものだと思います。

 

ヨガの考え方にパンチャコーシャと言われるものがあるそうです。

人間は五層で成り立っているという考え方です。

外から

1、アンナマヤコーシャ: 食や五感でエネルギーを取り込み、肉体を司る。

2、プラーナマヤコーシャ: エネルギーや気を司り、肉体と心を貫いて循環させる。

3、マノマヤコーシャ: 心を司る。

4、ヴィジーナマヤコーシャ: 本質的な智慧を司る。

5、アーナンダマヤコーシャ: 歓喜を司る。

この5つの流れを良くして、自分と繋がり、智慧を以てして、歓びの状態で生きること、つまり幸福を目的としているそうです。

 

食は食だけではなく、心と繋がっています。身体とも繋がっています。智慧にも関与します。もちろん美しさもその結果でしょう。そして、結果的に人生が幸福かどうかまで左右しているのかもしれません。

一つ一つの命の恵みに感謝して自分の血肉にする何十年と、栄養素や価格だけにとらわれたり、料理してくれた人にも感謝の念もなく取り込み続けた何十年とでは、多分その人の食べ物自体の選択も、内から作られた表情も、100兆個の腸内細菌も、思考回路も、すべてが大きく違ってくると思うのです。

もちろん、自分の調子が良くない時期もあり、心に余裕がないときもあります。完璧にこんなことをしようということではありません。

でもまず意識を変えてみれば、どこかにわざわざ習いに行かなくても、智慧はひとりでに自分の脳に降りてきます。

身体が欲するものがわかりますし、我慢など必要ありません。自分が地球の一部だと自覚できることも増えます。

フォーカスすべき点を少し転換し、日々の食事に感謝してみると、きっとその先に見えてくるものがあると思います。

 

万物にありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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