随筆 51

悲しいなあ。

彼らはニンゲンをどう思っているんだろう。

2歳の時、同居し始めた祖父母。

血のつながらない祖母が、真っ白のスピッツを飼っていた。自分が白米が好きだから、彼女にも白米。

子ども心にどうして犬にあんなものばかり食べさせるのかと疑問に思っていた。骨をやらないのは何故だ?って。

年中、獣医のところに連れて行ってた。糖尿病と子宮がんを併発していた。

その人は自分の部屋を見張るように犬に言い聞かせていたので、家族にも吠えた。

私は一度もその犬に触れたことがなかった。

ニンゲンの玩具のように飼うその扱いが大嫌いだった。

アフリカに住んでいた息子。

る日、庭に迷い込んできた小犬がいたらしい。

あちらでは狂犬病が怖がられ、野良犬はニンゲンに殴られたりすることもあるそうだ。

息子は狂犬病ワクチンを打って、広い庭のある家で小犬と暮らし始めた。

私が犬と触れ合うのはもう何十年ぶりだったか、亡くなった母方の祖母のマルチーズと遊んだとき以来か。

私が訪れたときはかなり大きくなっていた。

あの国では、動物たちが

「この人となら一緒に生きていける」

と決めてそこに住み着くことが多いようだ。

仕事に例えるなら、自らしゃしゃり出て役職や役割などを「やりたい!!」というリーダーと

「あなたしかいません」と言われてそれに応えるリーダーとの圧倒的な違いのようなもの。

動物たちがショップで売られニンゲンがかわいい~!!」なんて叫び買われる一生と、彼のように自然にニンゲンのところに住み着くものとは違う気がする。

つまり個人の思惑で故意にそうすることと、自然にそうなることの差異。

 

同様にアフリカの知人の家には猫がいつの間にか住み着いて、彼女が日本に帰国したあと預けた家から行方不明になったらしい。

息子と暮らしていた彼は、庭続きの隣のおじさんが面倒をみていてくれていたが、息子が帰国した一年後行方不明になった。

聞けば、息子が住んでいた家に別の人が住み始めたらしい。

多分、ずっと息子を待っていたのだ。

別の人が入ったので、もう帰ってこないとわかって捜しに行ったのかもしれない。

(隣のおじさんの飼う鶏の骨や内臓を食べている。おじさんも自分の鶏が三羽も襲われて食べられたのに、きちんと面倒をみていた優しい人だ)

 

彼はまさかアフリカ大陸と、息子のいる日本がこんなに離れているなんて知らないだろう。

今も息子を探しているのかもしれない。

本来ペットというのは人間より下位な生き物ではなく対等な仲間のようなもので、私から見れば大切な人とコニーサンの立ち位置はなんら変わりはない。

それでも普段は彼らをケージに閉じ込めていることに懺悔の気持ちが拭えない。玩具のように店で買い求めた嫌悪感は消えることはなく、せめて選択肢を多く与えることや、彼らが訴えることに耳を傾けることくらいしかできない。

 

 

自分が生きるために動物を殺して食べることは食物連鎖としては仕方ないと考えられるが、喰うためでない殺戮にはできる限り荷担しないように考えたい。

 

ゾウのなみだ

 

自分のことだけ徹底すればそれで良いと思う。

個々が平和的な思考と生き方を学べば、世界は瞬時に幸せになる。

自己完結せずに誰かや何かに依存し、暇になるとろくなことが無い。

弱いものは淘汰される。

しかしその淘汰が、できれば武力や必要量をこえた不自然な独占によるものではないことを願う。

私達は動物だけでなく、植物、昆虫、菌類微生物とも共生しなくてはならない。

地球の上のこの世界は、清濁合わせ飲んで、全てで一つを創っているのだから。

 

生きることは殺すこと

 

この殺しの意味をしっかり考えて生きたいものである。

 

 

 

 

 

 

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