大人になった、もしくはティーンエイジャーになった自分の子の、赤ちゃんの頃を振り返り、あなたは小さいときこうだった、ああだったとやたらと子どもに語りたがる人がいますが…
私はあの心理がよくわかりません。
もちろん育児日記も、三人分とも三歳まで毎日書いてあるので、読みたきゃ読みなって、いつでも手渡せる状態にはあるし、三人の子の、生まれながらの性質について家族で語り合うことはあります。
子どもをきちんと見ていれば、特に二人以上産んだことがあれば、人は生まれながらに持ち合わせた性質がそれぞれ異なることがわかるはずです。
自分と異なる性質を、親が受け入れ難く、子どもを自分の思い通りに支配しようとする人もいますが、この生まれながらの性質はいくつになっても変わりません。
コントロールする行為は無駄です。
そして、思い出として振り返ることはあっても、あのときあなたはとても可愛らしかった。愛しかった。などとは決して思いません。
なぜなら、我が子たちとの関係性は永遠に更新され続け、お互いに積み重ねてきた分厚い過去によって、現在の愛し合う関係性がそれぞれに構築されているからです。
辛いこともあり、問題を起こしたこともあるかもしれませんし、大けがをしたり、死にかかったりもしたかもしれません。
でも「いま」の彼らを愛しているので、過去を振り返って、あのときは可愛かった……なんてまったく思えず、あの頃出会ってから、幸せな関係性を築いてきた今の彼らの存在が、そりゃあ、過去より愛しいでしょう。
赤ちゃんの頃のかわいさの余韻に浸る人々の親子関係は、もしかしたら現在そこまで子どもと良い関係を築けていないのかもしれません。
ただ、もしそうだとして、その関係を諦めてしまうことも私には理解出来ず、まだお互いに生きているのなら、今から再構築すればいいのに、なあんて思ってしまいます。
離婚して、7歳で父親と暮らし始めた長男が先日私にこう言いました。
もしも「どんな親に育てられたのですか?」ときかれたら、僕は明確に答えることができるから良かったと。
それを聞いて、7歳まで一緒に暮らしていた頃、月に数回しか会わなかった思春期の頃、下半身不随の介護の頃、そして、現在の関係性を通して、彼は「私に育てられた」と考えているんだなと。
父親は経済的な部分を同居して支えてくれました。それも育てたうちの一つですが、子どもが育てられたと感じることは、お金ではなくもっと大切なマインドの部分だったんだろうと思いました。
支配するのではなく、ひたすら背中を見せることが教育だと思っています。教えるとは、洗脳することやコントロールではありません。
親も子も同じ動物なのだから、彼らなりの最善を、彼らなりに選択していけるはずなのです。
私はそれを信じています。
今の関係にとても満足していることは、きっとどちらかが死ぬまで続きます。
先日、コニーサンが逝ってしまいましたが、やはり赤ちゃんの頃のコニーサンより、死ぬ間際のコニーサンが一番愛しかったのです。
前日の晩から亡くなる朝までずっと掌の上で彼を撫でていました。
小さい頃の写真を見て可愛いとは思いますが、彼とすごした二年間という時間、最期までそれは更新され続けて、最高に愛している状態でサヨナラできたと思っています。
死ぬときに後悔するのは、銀行通帳の印字の桁が他人のそれを上回らなかったことではなく、権威を手に入れられなかったことでもなく、自分の名前をこの世に残せなかったことでもなく、共にこの時間を生きた大切な存在と悔いなく愛し合えたかどうかです。
必ず大切な存在とは愛し合います。
誰に対しても一切の後悔がありません。
それが、
今日死んでもいいように生きる
ということだと思うのです。
今日も万物に感謝します。
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