壁の向こうはいつだって美しい

人生では、苦しい事や悲しいことは避けては通れません。

でも、それを出来る限り逃げようとすると、死ぬまで壁の中をぐるぐる回ることになります。

 

赤ん坊は気に入らなくても、自分の親が強制することから逃れられません。

産まれて先ずしなければならない修業は、親との価値観の相違を乗り越えることです。

 

でも十年ないし数十年、共に暮らし自分の命を生かしてくれた親との関係構築は、その後の人間関係構築の基盤となります。

家族はクローンではなく遺伝子の異なる別の人間ゆえに、一部似ていたとしても自分の分身にはなり得ません。

違いを認め、子供に自分の価値観を押し付けることなく見守ることは、最低限の親の努めです。

間違っても隣の子と勉強などという狭い枠組みで戦うような人生を送らせてはいけないと個人的には思います。

基本的な生活習慣を身に付け、バランスよく食べさせることに注力し、今できる最も良い状態を保てば、あとは遺伝的な本人の才能が発揮されるのを待つばかり。

自分と他人の混じった遺伝子なので、期待は無駄に終わることもありますがそれは必然で、子供のせいではありません。

 

十六歳で大人だと認識していた私は、義務教育でもない高校に行かせてもらえたのだからそれで充分と捉え、小遣いももらわず、自発的に食事は外で済ませていました。

お弁当もお年玉も断り、バイト代で教育費以外を賄いました。

おかげで、一時期うちに集まっていた二十代の大学生たちが、大人であるのに親の批判をすることに対して

「おっさんになって、なぜ自分で何もせずに親を批判するの?」

「気づいてるなら自分でやれば」

と言う事が出来たのです(笑)

賢明な子は気づきました。

その日中に母親に感謝の気持ちを述べたと連絡がありました。

その遺伝子でしか生まれなかった必然に、文句を言ったり批判をするのは時間の無駄であり、殺して喰らった命に対する冒涜ですから。

たった数㎝程のハードルでも、跳べば景色は変わるものです。

 

一度目の離婚は、当時まだメジャーでなかったこともあり、親にまで

「おまえなんか産むんじゃなかった」

と言われました。

両耳が聞こえないほどのストレスで何年も我慢していたことがありました。

「今日死んでもいいように生きよう」

という十二歳の頃、医師に余命宣告をされた時に決めた自分のポリシーに逆らい続けるのが嫌だったことが最大の理由です。

また不幸な母をみて子供たちが幸福になることは無いとも思いました。

親の背中が自己犠牲なら、彼らも自己犠牲を選ぶ人生になるかもしれない。

嘘つきの親を見れば、嘘をつくことがニンゲンの生き方だと学んでしまう。

なので彼らの人生を彼らのものにするために何年も考え続けました。

彼らの性質は変わらないと思っていましたので、

「子供はわたさない」

と言う相手の要望を受け容れ、養育費として財産も全額渡し自分の車一台だけで離婚しました。

ですが初めから自分の意思をきちんと伝えなかった自分にも非があると気づきました。

二度目の結婚からは本音を伝えるようにしました。

 

その後数十年たって感じることがあります。

つまりモノに執着していない人は、またゼロから同じだけ産み出す力があるのです。

離婚後、手持ちのバイト代しかない私に、十代の時に半年アルバイトをしただけの会社の社長が当時の女性の給与の倍を出すと言ってくれたのです。

「明日から来て」

驚きました。

その後の転職もいきなり管理職として採用され経済的に困ることはありませんでした。

再婚相手は、親に反対され全財産を放棄して私と結婚しました。

 

『とりたい』と考える人は潜在的に『生み出さない』と決めている人です。

相手に執着して幸福を願わない人は、潜在的に『自分はもう幸福になれない』と決めている人です。

すると自分の細胞がそのような指令をもとに動き続けます。

結果、思考は現実化します。

 

長く共に暮らしたり関わっても、ハードルを『跳ばない』人はいます。

言葉では『跳ぶ』といいながらどれだけ低くしても跨ぐことすらしません。

恐怖の世界に生きる人は、恐怖を産み出し続けます。

彼らとは共に美しい景色を観ることは出来ません。

『奇跡は準備ができた者にだけ訪れる』の瑞樹の自著部分を読んでいただければわかりますが、事故の前には決して戻れない『いま』がそこにあります。

けれど、彼にも私と同じ『壁の向こう』の美しい景色が視えたはずなのです。

 

虐めも、余命宣告を受けるほどの大病も、両耳が聞こえなくなった時期も、離婚も、最後の結婚も、我が子の下半身不随も、すべて必然だと捉え、跳んでも届かないなら叩き割ってでも通り抜けようという強い意思で壁の向こうに出ました。

その壁の向こうの景色は、乗り越える度にどんどん美しくなります。

まるでゲームのようにラスボスも強敵になりますが、進んだ世界では自分のヒットポイントも出会う仲間もどんどん強くなっていくのです。

ですから最期の壁をこえた先は、最高の美しい世界が待っているはずなのです。

 

もう人間には転生しないこと、二度とニンゲンなどと出会わない事、コニーサンやシェリー達と草原で永遠に走り回って遊ぶ世界が私にとっての最高の世界です。

幼少期に決めたことが次々と現実化していく人生の仕組みが、まだ明確に著せないでいますが、人生で哀しみや傷みは避けては通れないことは周知の事実です。

ですが経験は確実にヒットポイントとして積みあがっていきます。

その道の途上で、ある日ストップすることがあるなら、それを『死』と呼ぶのかもしれません。

 

真実は虚無 リアルはファンタジー

これ以上の答えは今のところ見つかっていません。

ですから、起こることは必然、自分が源です。

本当に地球や宇宙があるのかすら確かめたことはありませんが、在ると信じているから在るのです。

目の前の人の顔が他の人に同じように見えるかどうかも未だ私には証明できません。

なので出来る限りその生命の意識や魂みたいなものを感じるように努めています。

だから相手の年齢やステイタスが意味をなさないものになるのですが(笑)

 

生きることに歓喜し出会う魂と愛し合いたいものです。

万物に感謝を。

魂が皆歓喜できますよう。

 

今日も皆さんありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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