愛とは深く冷たいものである

いつからか、こう思うようになりました。

真の愛とは一方通行で、相手の幸せを考えることだとぼんやりと言葉にしていたものの、つきつめていけばそれは時に、他者から見ると恐ろしいほど冷酷な行為だったりすることがあります。

ですが、愛はエネルギーであり、どんなに冷酷に見えてもそれが愛であるなら、光でしかないものです。

 

拙著のあの「奇跡は準備ができた者にだけ訪れる」ですが、

自分の幸せより相手の幸せが上まわるときに奇跡が起こる

と私は書きました。

 

いきなり下半身不随になった寝たきりの息子に、優しい言葉をかけることもなく、そばで普通に運動し勉強し、涙も見せず同情もせず、冗談を放ち、おまけに次々と無理難題をその息子にもちかけました。

「お母さん、無茶ですよ。」と医師や看護師に何度言われたことか……(笑)

時に息子も私の冷淡さに驚いたかもしれませんが、彼もなかなか諦めませんでした。

普通に考えて行動すれば絶対に歩けない。私がとった手法は超スパルタでした。

当時小学生の娘のことは心配でしたが「死にはしない」と放置していました。

京大受験を目前に控えた次男には「勉強すれは誰でも合格する。兄ちゃんが歩くことよりずっと簡単!」と家事も任せました。

息子からは他人である当時の夫に、本人がなんと言ってくれていても、長男の介護を一生させるわけにはいきませんでした。

歩かないと決めつける身内にも、うるさい黙れと、すべてを冷淡に切って捨てていきました。

なぜなら長男が歩くことが、彼自身にも家族にも、そして私にも何よりの幸せだと思っていたからです。

途中、それを説明しないがゆえに、意図が全く通じない人々には心無い言葉を浴びせられました。

大好きな人とも離れることになりました。

でもやはり私はそれをやめることはできませんでした。

 

自分のことよりも、この人さえ幸せであればという、心から相手の幸せを願うエネルギー。

もしも自分の大切なものがなくなったとしても、それでもいいというくらいの捨て身の思い。

決して何かを自分が得るために使う言葉ではありません。

考え抜いたその結論が、相手にはまったくそうとわからない場合もありますが、出したエネルギーが純粋な愛であるなら、それは必ず相手に良きものをもたらすでしょう。

だから、見返りを求めなくても良いわけです。相手の幸せが目的なら、自分に見返りは必要ありません。

もしも自分の存在が、相手の迷惑になるならば、愛していればいるほど自分が消えるべきでしょう。

やりきっておかなければいけないのは、誰に対しても愛し抜いておくということです。

 

愛とは深く冷たいものである

 

この冷たいという言葉は、置き換えるなら厳しいという言葉でしょうか。

 

保身のために揺らぐことなく

悲しみのために迷うことなく

愛した人の幸せを優先することが

結果的に自分の幸せになる

 

そんな愛し方を私はしてみたいと思います。

 

今日も皆さんありがとう。

 

 

 

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2 comments

  1. 冷たくても愛が深ければいいんだと思います。

    私はまだまだ甘っちょろく中途半端だから幸せにできないと感じます。

    1. そんな風に、自己を否定しないでください。
      できるなら、優しいままで相手と分かりあえて、微笑みながら生きていける関係がいいと思います。

      私自身も表現が下手で、その過程で大切な人たちを傷つけてしまいます。

      もしも、言葉がなければ素直に愛し合えるのだろうなとコニーサンたちと生きていて感じました。

      人間は言葉を持つがゆえに魂が見えず、とても厄介な生きものだと想います。

      原始に還ってみたいものです。

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