真実は虚無 リアルはファンタジー

これは私の造語です。

小学生の頃決めた人生のテーマは「真実の追求」でした。

人々は思い込みにとらわれています。

ニンゲンは単なる生物の一種なので、自分も含めて、人間たちの創ったものなど、どこまで正しいのかわからないと思ってきました。

だから真実はどこにあるのか、答えを導き出すにはいつも、前提条件を取り払う必要がありました。

簡単にいうと人間たちの作ったことを一旦忘れてゼロベースで考えることです。

例えるなら、サバンナに一人佇む自分、日本全土が焼け野原になってシェルターを出てきた瞬間、もしくは無人島に一人流れ着いた自分。

先入観を捨て、一切の人間の意見を信用せず、己の頭で考えるということです。

自分の目で確かめて、耳で聞いて、心で感じ、エネルギーを感知することのみを信じていくのです。

義務教育はありがたく、一旦は知識として蓄えてみるものの、最終的にはそれさえ疑い、全部叩き壊すようなイメージで活用させていただきました。

それらは本質をみるためには大きなヒントとなりました。

教育を受けなくてもわかることがあります。そのような誰が考えてもわかるものは本能であったり、自然の摂理だと思われます。

自分たちの種をこえて視えてくる世界があります。だから植物や動物などの他生物と対峙してみることも大切なのです。

真摯に他生物と関わっていると、すべてに共通する生命の基軸のようなものが見えることがあります。

ニンゲンの考えることは所詮ニンゲンの主観的なものです。

「自分より頭の良い人が創ったお話」を信用してしまったとき、それは世界に流布することになり「正しい」という言葉に置き換えられていきます。科学は興味深く、大多数の人にある程度納得させることができますし、机上の空論をリアルにするための有り難い活動だと思われます。

これらの思考は、先進国民である自分がシステムの管理下において、生きるための活動でない働きを「仕事」と呼び、食べ物を作らなくても貨幣と交換できた結果、それによって産み出された「暇な時間」を使って熟考することや創造が出来たからこそ、辿り着くものかもしれません。

脳科学などで、数え切れぬ動物を殺戮して得た研究結果などから、結果的に見えているもの、感じているものが脳の電気信号だったという話を信じるとするなら、リアルなど実際には何もなく、すべてはファンタジーだということになります。

つまり私たちの感じているものは何もかも、単なる電気信号だということです。

だから尚更好きなように生きることが最善だということになるのです。

本来、生きることも死ぬことも何を食べるかも、何をするのかも、誰かに強制されるものではありません。

自然も自由も安全ではないし、安定しているものなどこの世にはないけれど、弱肉強食の世界に生まれたのだから、痛みと悲しみは避けては通れないのだと思います。

人間の不自然な活動は、この痛みと悲しみを怖れてひたすら避け続けてきた結果に見えてしまうのは私だけでしょうか。

 

いったい私達は何をしているのでしょうか?

何を恐れ、闘うのか。

何を恐れ、動物たちを虐殺するのか。

何を恐れ、そんなに食べるのか。

何を恐れ、それらを傍観しているのか。

 

自由に創造できるなら、素晴らしく平和で穏やかな世界を創りたいと願います。

 

果たして地球って本当に在るのでしょうか……

 

真実は虚無 リアルはファンタジー

 

今日も皆さんありがとう。

 

 

 

 

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