「理由なんてない」
と年中言う人がいる。
でもこちらからみれば、本人がある種の行動をするとき、決まって同じお話を創っているのがわかっている。
癖ともいえる。
だからそう言って正当化もしくは煙に巻かないといけない心理的な理由は毎回在るのである。
ニンゲンはパターン化されている。
自分だけは当て嵌まらないと考えるのか。
はたまた60億人いれば60億通りの行動があると思っているのだろうか。
同じ行動を繰り返すのもまたある種のパターンだ。
現にハムスターが教えなくてもヒマワリの殻をむき、回し車を走るから『実験動物』としてニンゲンに使われるわけで、あまりに個体差が明確なら比べることはできない。
未だに『虫の報せ』がある人はいるし、それを失いつつある人は隣近所のニンゲンがどう動くかや、印字の桁が自分より上回ると”想像する”人に米つきバッタになることなどで、自分の命のリスク回避さえ判断できずに流されて動いたりする。
何十億も行動パターンがあるわけではなく、ニンゲンはざっくり幾つかに分かれているようにみえる。
一般的には数になびく人間は多数派だと思われる。
半世紀近くも生きていると、出会うニンゲンや生き物の数、テレビ、書籍、新聞、海外の文化を知ることなどで、そのパターン化は容易に理解できる。
ただし、評論は無意味。
自分はどのパターン、もしくは誰と同じ部類のパターンなのか、俯瞰的に知っておくことは大いに役立つ。
躓きやすい傾向や、陥りがちなトラップなども
「いつものパターンだ」
と回避できる。
例えば社会。
世界を助けるヒーローが存在するようにお話を創りたい気分にはなるけれど、実際、ほぼサスペンスドラマだったりする。
多分ニンゲンごときに出来ることなど知れていて、言葉や表現を変えて誤魔化しているだけで、似通ったパターンで生きているのではないか。
大人は思い出してみてほしい。
小学校の班活動。
皆に班長になってくれと言われても謙虚に断る人がいる一方、お呼びでないやりたがりさんが自ら名乗りをあげ、やったが最後、偉そうにふるまい始めたりする。
何かあれば友達のせいにしたり、先生のせいにしたりする責任転嫁は幼少から見られる傾向で、大人になれば旦那のせいだ嫁のせいだ姑のせいだ、もしくは部下のせいだと
責任転嫁はなお酷さを増している。
マウントを取りたい人は冷ややかに見られていることを知らない。
人間は成長などさほどしないのかもしれない。
10歳でも尊敬すべき子供はいて、80でもよくわからない人もいる。
小難しい言葉を並べ崇高に見せても、小学校のあの班活動に見られるパターンが永遠に続くかのような社会だ。
だからシンプルに考えればよい。
恋愛も。
社会のことも。
世界の事も。
皆そんなに変わらない。
誰も偉くないし、自分とさほど変わりない。
だから誰かの人生を仕切ろうとしたり強制したりしてしまうと滑稽すぎてピエロなのである。
今日殺して喰った命に恥じないようにただしっかりと自分を生きよう。
今日も皆さんありがとう
0 comments