砂上の楼閣

どこかのお店で売っているスマイルは、本物ではないかもしれない。

もしも、一歩外に出て倒れている人の傍を知らん顔して通り過ぎるならそれは形だけの偽物である。

 

海外に行くと、日本ほど店員は『笑顔』ではいない。

だからと言って彼らが笑わないわけでもなく、外国人を怖がっているわけでもない。

現地に一ヶ月近く滞在しながら、なるたけ一般的なスーパーや屋台で買い物をし自炊などをしていると、ガイドであっても、食堂の店員であっても、庭師であっても本当の話をしてくれるし、笑って握手もできたりする。

私はそういう本物が好きなのだ。

 

なのに、目の前で懸命に砂の城を築こうとする人などがいると、副流煙のように自分の世界まで濁るように感じてしまう。

虚栄心と承認欲求からなのか、息を吐くように嘘をつき、自己正当化するためだけに、事実を知らない人々に掻い摘んである一点のみ話す。

ニュースやスキャンダルに見られる大衆と同じで、思考回路が多くないニンゲン達は、私情を挟んだ都合のよい思い込みで、誰かを善人と仕立て上げ、誰かを犯人と決めつける。

事実は逆だったり、全く違っていたりするものだが、大衆は安易に被害者を殺したりするものだ。

犯罪心理学にあるように、たとえ犯罪でなくても加害者側はいつも被害者のふりをする。

謙虚に経験値のなさを認める大人も多くはない。

 

だからこそ、想像力に秀でていない類や青二才は、気をつけなくてはいけない。

背景を考えることもなく、数値でニンゲンを判断する。

数値の低い先住民の方が地球や人や動物に愛があり、数値で競い合う者の方が利己的で破壊行為が好きだったりするものだ。

もちろん、どちらも高い天才も存在するわけではあるけれども。

 

砂上の楼閣は、一定期間しか持たない。

必ず風が吹く時が訪れ、一瞬にして崩れ去る。

城の主の『フリ』をしていても全くもって無駄なのだ。

そういう生き物をもちろん誰も信用しない。

 

信じることは愛すること。

敬意は愛の一つなので、結局誰にも愛されない。

もし愛されないことを逆恨みなどすれば、本人が生涯感情に『恨み』を持つことになり、それは毒となって己の身体を蝕んでいく。

 

自分が出したエネルギーは自分に還る

ただそれだけ。

 

何十年かかっても、きっちりと基礎を固め、低くても頑丈な平家を築いた者の方が、多くの人を雨風から守れたりするのである。

 

自分が何を重視するかで世界は変わる。

視えない人には永遠に視えないものもある。

 

能ある鷹は決して爪を隠していない。

爪がある者同士には初めからはっきり視えているものである。

 

どう生きても自由だけど、己に還ることだけは心しておいた方が良いだろう。

 

今日も皆さんありがとう

 

 

 

 

 

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