迷ったときの選択

私達は、日々様々なことを選択し、生きています。

何を口にするか、何時に寝るか、誰と話すか、何を着るかなど……

淡々と流れるように行われることは、その意味を意識することもなく、気がつけば何十年と過ぎていきます。

そのような日々の中で、どちらにするか迷ってしまうような場面に出くわしてしまい、答えがなかなか見つからない時もあると思います。

人に尋ねてみたり、ネットで検索見たりしてみたり。

 

選択に迷ったとき、間違っても物質的な損得や、虚栄心や、義務感や、他者からの強制などで選択しないことです。

いつも迷ったときの選択はこれでなくてはいけません。

どんな人も。

どんな存在も。

 

それは自分が幸せになる方です。

たとえば、息子が下半身不随のままだったら、私が幸せじゃないし、息子も幸せじゃないし、家族も関係者も誰も幸せじゃありません。

なので、医師の

「僕が無理だと言うことは世界のどこへ行っても無理」

という言葉を信じないで、歩かせようと決めたわけです。

そして、我が子達はなぜかいつも

「母さんが幸せならそれでいい」

と言ってくれるので、余計に自分の幸福を諦めるわけにはいきません。

彼らの幸せの一つが私の幸福であるのだから。そして、私の幸せの一つが彼らの幸せでもあるので、幸せを願い合う無限ループですね。

 

また、誰かのために行動したとしても、それが必ず自分にとっても最善の選択でありたいと思っています。

その人が幸せであることが、自分の幸せであるなら、それがたとえ自分が嫌われるような結果になる場合もあります。

 

そのときその時で、自分にとって幸福度が高い選択をしていると、当然そうなります。

幸せな選択の連続によって、幸福な最期を迎えられるということです。

たとえ災害に巻き込まれても、事故に遭って命を落としても、幸福な人生だったと云えると思うのです。

 

思いがけず災難がやってきたときがあったとしても、そこからまた幸福な選択を続けていると、いずれまた、笑える日がやってくるでしょう。

逆境に強い人はもしかしたら、こうして何度でも幸福な選択をしているのかもしれません。

生きている以上、それぞれが自由であるはずです。だから選択も自由にできるはずなんです。

「人に言われたから」

などというよくわからない理由で、自分の命を無駄使いするのはやめましょう。

 

私達が命をつなぐために、先祖代々、膨大な生命を殺して血肉にしてきました。

殺した生命に対する責任は、自分が幸福になることしかないのではないかと思います。

 

価値基準は他人ではなく、自分です。

みなさんもどうか、幸福な選択を。

 

人の幸せは嬉しいものであって

人の不幸せは悲しいものである

 

今日も皆さんありがとう

 

 

 

 

 

 

 

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