今月の教室のテーマです。
自然にそれをやってきた自分の何かがお役に立てられれば、という気持ちがあります。(本を書くのもその一環)
ところが、いつからか「仕方ない」という言葉を使う人が多数になっています。
「仕方ない」は考えない人の怠惰な諦めから、考え抜き行動し続けた人の最後通告という意味である「仕方ない」まで、幅がかなり広いです。
ですが、前述した大多数に於いては、殆どが前者のように思います。
何を話しても「面倒でどうでもよい」からの「仕方ない」が返ってきます。
自然の摂理においては、「奇跡」は準備ができた者にだけ訪れる「単なる結果」のことなのです。
きちんと現実を把握すれば、その人の準備度から先がわかったりするわけです。
ただし、ニンゲンのお話に洗脳されている人が考えてする準備と、大脳辺縁系のR領域からたたき出すシックスセンス的な準備とは必ずしも一致しません。
その時になって本人さえ「ああ、これやっててよかったな」というように奇跡的な結果が起こることがありますが、それは火事の前に逃げるネズミのごとく後者のシックスセンス的なものです。
それを思考の浅い人々が「運が良い」と表現するだけなのです。
運が良いなんて物事はこの世には無いと思います。
人材育成は、経営者が考えるような箱の中の数字をあげることではなく、揺らがない人間性をまず確立させることが大切です。
揺らがない人がしてくれる仕事と、企業の名前や給与だけで適当にする仕事とは当然その質も責任感も結果も異なります。
そういったことを自覚するには、まず自己分析が必要です。
仕事でも人生でもそうですが、責任感とは他者に対する愛です。
無人島で一人生きているならまったく必要のないものです。
逆に責任転嫁をする人々は、本当に自己分析ができない人が無知でしている場合と、目の前の決して報復しない善人(や~さんにはしないでしょう)に故意に擦り付けている改善の余地のない類が存在するということです。
また、「生産性」や「タスク管理」という言葉をやたら使いたがる年代がいますが、誰のための生産か、何のための生産か、その目的は何かということを考えて話している人は少なく、箱の中の限定された価値観ゆえに、余命宣告でも受けた時、そこに大半の命の時間を費やす意味が全くなかった‥‥なんてことに初めて気づく人も出てくるでしょう。
責任感は第三者に対する愛のひとつの形態なので、愛の量に比例します。
恐怖で隷属することを責任とは呼びません。
自分が心から納得して従事するなら簡単に諦めたりしないでしょう。
だから納得、つまり自発的な仕事なのか行為なのかが重要です。
そういう集団は、とても強固なものになります。
セルフケアはその基盤。
自分を守れる人でないと他者の守り方もわかりません。
言われた作業しかできない人間と、目的や意図がわかっている人とでは何もかもが異なります。
そして
遠くの親戚より近くの他人
例えば困った時や非常時、スーパーサイアジンみたいな家族でもいればそこに行けばいいでしょうが、いざという時地域コミュニティの強さが相互扶助の大きさに比例します。
仕事を何と定義するかは人それぞれですが、どのような集団を作るにしても、目的、明確さ、自発性、ここからあぶれる者とは共生できません。
ただの依存者になるからです。
いまのうちに自己分析を終え、セルフケアくらいはできるようになって大人と名乗りましょう。
究極の質問は「明日死ぬとなったらどうするか」
今日死んでもいいように生きましょう。
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