孤独の恐怖とはなんなのでしょうか。
核家族や独り暮らしという生活の形態だけでなく、過去の虐めや失恋、離婚などトラウマのようなものが原因になったりすることもあるのかもしれません。
日々その恐怖にとりつかれ、判断・選択を見失ってしまう人もいます。
逆に、独りの時間が長くても孤独を感じることのない人もいます。
前者と後者は、もしかすると視点が違うだけなのかもしれません。
そもそも孤独ではない
人間がいる世界で生きると決めているなら、孤独にはなり得ません。
たとえば買い物に出かけたとします。
店員さんに何かを訊ねれば、いきなり入った見ず知らずの自分であるにも関わらず、受け答えをしてくれます。
道端で落とし物をすれば、誰かが拾ってくれたりもします。
混雑した場所で誰かが道を譲ってくれたり、仕事をしていればお客様にありがとうと言われたり、そんな刹那の愛をたくさんもらって生きています。
特定のパートナーがいなくても、他者からたくさんの愛をもらっていることに気づけば世界は違って視えるかもしれません。
もしも一歩も外出しなかったとしても
私は独りの方が好きなのでどこかに籠っていてもさほど苦痛を感じません。
それでも人間社会に生きる限り、人との接点はあります。
注文した品を届けてくれる人がいたり、長い間会っていない誰かが自分を思い出してくれていたり、電話で問い合わせをしたり、ネット上で自分の言葉を誰かが読んでいたり、確かに誰かのエネルギーをいただいています。
エネルギーとは、その人の命なのです。
その命の時間を自分に使ってくれている事実に気づくか気づかないかで幸福度は変化します。
それがたとえ刹那的でも、一期一会のように奇跡的な出会いなのかもしれません。
食べるだけでも
海の向こうの誰かが、先進国民の嗜好品を作っています。
命をつなぐことに必要のない嗜好品でさえ、自分達の土地を使って泥だらけになりながら毎日栽培してくれています。
間違いなくそれは、彼らの『命の時間』で育てた物であり、私たちの血肉となっています。
私たちは毎日多くの生命を殺しながら、命に代えているのです。
地球の循環の中の一部だと気づきます。
無人島にいたなら
無人島にたった独りでいたとしても、鳥や樹や魚や雨にもエネルギーをいただき、生きているはずです。
やはり他生物に命のエネルギーをもらい、共生し、循環しているでしょう。
そう考えていくと、私たちは過去すべてにおいて、実に数えきれないくらいの生物から命をもらってきたのです。
刹那的でも他者から愛ももらっているはずです。
どうやって孤独になるのでしょうか?
世界には愛し合える存在はたくさんいると思うのです。
生きることに哀しみと傷みはつきものですが、でもそれと孤独とは全く別のものなのだと思います。
いただいた命や愛情を無駄にしないためにも、一度恐怖を手放してみてはいかがでしょうか。
今日も皆さんありがとう。
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