自分が生きる世界

忙殺される日々の中で、気づけば数年が過ぎていたり歳をとっていたりすると、まるで自分以外の人の世界など想像する余裕もなく、ましてや仕事と呼ばれる箱の中で賞賛される結果を出したりなどすれば、謙虚さを失い視野が狭くなり、自分がどのような世界の迷路を走っているのかも見えなくなってしまいがちです。

個人の人生はたとえば50年でも80年でもとても長い時間に感じるものですが、宇宙的に視ればたいした時間ではないということを頭の片隅において考えてみてほしいのです。

私たちは同じ空間で、樹々や鳥たちや昆虫、動物、海洋生物、細菌、微生物まで共生していますが、中にはその万物の命がまるで生きていないかのように、例えばアスファルトの塊や、モルタルの壁のように無視して通り過ぎていくニンゲンも大勢います。

赤ん坊のころ、幼稚園児、小学生から大学生と、大人になるまででも大勢の人と出会いますし、そこからまた死ぬまで出会う人も、生きれば生きるほどにめまぐるしく入れ替わり、生き別れ死に別れ共に比例して多くなっていくものだと思います。

日々の小さな命に注目しながら感動の中で生きていると、同じ世界で繋がっているのかのような出会いに敏感になります。

互いによく知らなくても信頼できるような懐かしさ。

今まで知らなかっただけで、過去を辿れば同じところに行きつくのではないかと思われるほどに。

でももし世界が一つなら、万物がすべて繋がっていることでしょう。

人間以外の生物とも。

 

他生物を大切にすることは、自分の体を守ることととよく似ています。

外見だけ取り繕っても、自分の細胞に感謝し良いものを与えて大切にしないと不具合が生じます。

結果その人自身が自分を造っている源を破壊してしまうのです。

自分の細胞を大事にすれば結果的に自分を守ります。

だから他生物を愛し大切にしていれば、自分の生きる世界が守られるのではないかと考えられはしないでしょうか。

 

巷で言われるように、もしも各々の波動で次元の異なる世界を見ているならば、出会いを奇跡だと捉え、助け合うことが最短の幸福ルートかもしれません。

人のつながりは深遠なもので、置かれている立場や年齢、場所などを越えて、また既婚未婚なども関係なく安堵できるような関係になれるのが仲間であるような気がします。

一方的な利己的さとは縁のない関係です。

でももし地球上の何もかもが一つとして機能しているのなら、多様性を認め、嫌いな人も悪意に満ちたように見える人も癒していかなければ自分の世界はよくならないでしょう。

同じ世界の者同士は繋がっていて、行くべき場所には行きつくようになっているような気がする今日この頃。

できれば異次元で各々が生きていてほしいけど、総てが一つなら仕方ありません。

憎悪は世界によくありません。

棄てるべきでしょう。

 

出会う命を大切に。

 

万物に愛を。

 

 

 

 

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