子どもの本質

誰かとお付き合いするとき、自分に合わせてもらうことでストレスによる自分の心の均衡を保とうとする行為は、社会ではよく見てきた光景です。

 

実際、私も若い頃はそう考えることが多くありました。

 

子どもを何人も育てていると、生まれ持った赤ちゃんの頃の性質は大人になっても変わらないことがわかります。

 

自分の一歳くらいからの記憶を辿っても、価値観は大きく変わっていないことがわかります。

 

育ちの過程で、親や教師が強制せず選択を本人に委ねていれば、本来のその人の性質が素直に表れると思われます。

 

しかし出産後暫く経過すると、生まれてきてくれたことが嬉しかったはずなのに、他の子供と比べ始め、いつの間にか他者に合わせることを強要する親も多くなります。

 

もちろん、あるコミュニティで生きていくのなら、そのコミュニティの最低限ルールは教えなくてはなりません。

 

そういった大人が信じていることを選択するかどうかは、また別の話です。

 

「これが正しい」ということは人間社会にはなくて、どうしても本人が嫌がるのなら、別の方法を親は考えるべきだと思います。

 

その人の命はその人のもの。

 

たとえ自分のお腹から出てきても別の人。

 

自分と違っていても、他人が混じったのだから当たり前。

 

今のこの国は、空気も綺麗ではないし、食べ物もすべて安全とは言い切れないし、血液や脳の構成材料も親子でも細胞レベルで違うはずです。

 

似ていることと、同化することを混同すると、自分とちがった異質なものを排除するという、村八分や虐めなどの日本文化独特のアレが家族間でも起こってしまうのかもしれません。

 

そしてそれが暴力に繋がったりするのかもしれません。

 

子供たちには、私とは別の人間だと話してきました。選択肢は提示しますが、選択は本人に任せてきました。

 

面白いくらい三人とも性質が違います。彼らを見るとき、本人の性質を視て、私が決して好きでないことも彼らの個性だと受け容れ続けたというだけなのです。

 

私とは価値観が合わないし、好きじゃない部分もあります。お互いに。

 

でも誰かや何かを支配することも、支配されることも好きではありません。

 

各々が自分で選択して、何をし、誰と生きるかを決めればよいと思います。

 

私の道はやはり私だけのものです。

 

子どもの道もやはり子どもだけのものです。

 

親が自由を奪う事だけはしたくないと思います。

 

長く生きることと幸福とは同じではないし、他者と異なることと不幸とは同じではありません。

 

言葉や形に踊らされず、しっかりと個人を見ていければそれぞれに何かしら良い面はあります。

 

万物に幸あれ。

 

 

 

 

 

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