同じ母語を話しているのに言葉が通じない人、逆に同じ母語を話さなくても心で通じる外国人もいます。他国ではこちらも何とか伝えたいと相手の母語を覚えようと試みたりすることになり、なぜだか互いが好きになれる関係が構築されたりもします。
ところが同じ日本で育ち、同じ義務教育を受け、ジェネレーションギャップがあったとしても歴史を知れば理解できる『母語』があるにもかかわらず、まったく話が通じない人々もいて、残念なのは一つ屋根の下に生活する家族でも通じない現象が起こることです。
共通する点は、相手の話を傾聴するか否かにあるように思います。
相手より何十年多く生きていたとしても、言語が通じるとは限りません。
自分が正しいと思い込みたい感情は、園児から大人まで
「あなたはおかしい」
の一言で正当化されてしまいます。
傾聴する人はどんなものからでも学ぶ傾向にあり、年齢や肩書、通帳の印字の桁で習得する知恵を限定したりはしません。
同じ時間生きても智慧に開きがあるのは、学校の教科書のコピペの量ではなく、優劣を決めない性質にあるのかもしれません。
また、自己評価は他者から見られる自分ではなく、昨日の自分と今日の自分の差異であり、揃って彼らは留まることを知りません。
つまりは心が通じ合い信じあえる関係性は、その人の生き方に直結しているという事です。
十年二十年と同じ母語の人間に伝え続けても、傾聴しない人は耳を塞いだままで、誰かに責任転嫁をし、自分を正当化し、周囲に依存しながら相変わらず同じ台詞ばかり吐き続けます。
相手の命の時間を搾取していることに何とも思わないか愛があるかで差は開きます。
祖先や殺した万物から頂いている自分の命の使途は、先祖供養や動植物への供養(感謝)とも比例するでしょう。
類は友を呼び(別の言い方では引き寄せの法則とも言え)人は自分の心地よい人と集団になります。
結局、各々が在るべきところに落ち着くことになります。
だからと言って、地球が生かしてある命をジャッジすることはできません。
自分と違う集団と戦い争うのではなく、一線を画すだけで良いのだと思います。
ただ、そうは言っても自分で選択した相手ではない人と組織を共にする場合もあって、だからこそ心の中で一線を画し、相手から学ぶことはあってもそこに一喜一憂して自己のエネルギーの消耗を避けることが大切なのかもしれません。
生きる時間の長さではなく、深く納得できる時間を重ねることの方が幸福な命の使い方であり、真の先祖供養にもなり、殺した命の浄化に繋がると私は考えます。
また優劣を決めぬ傾聴は、当然奇跡的な感動を覚えさせ、智慧となって自身の中に蓄えられ、必然的に対象に感謝の気持ちや畏敬の念を起こさせます。
聞く気がないならそれを正直に伝えることも、相手と自分の命の時間を無駄にしない愛の一つでもあります。
愛ある人は自分が愛で満たされているため、他者から愛されることを求める必要がなくなります。
万一自分を真に愛してくれる存在と出会ったなら、それを奇跡と呼ぶのです。
今日も皆さんありがとう。
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