好きだという想いは、実は奪う行為かもしれない。
一つの言葉や行動、事象は常に逆の意味をはらんでいる。
この人は強いから、お金をたくさん持っているから、仕事が出来るからといって、何の貢献もしなかった人がそこに依存する光景は、愛ではなく搾取でしかない。そして恋愛においても、依存を心底愛だと思い込んでいる人がいるということも事実だ。
ただし逆転の発想で視れば、依存される側が孤独の解消や承認欲求を満たしたいという意図を潜在的に持っているなど、他者が依存することはその人への貢献になることもある。
例えば同情する感情は『心配している』のではなく、自己を投影した自己正当化だったりすることもあれば、人の幸福が妬ましい類の歓びの場合もあり。
「子どものために」と常に口にする親については、その人の行動を見るべきである。声を大にして言わなければならない理由が必ずある。
大人や親に何らかの違和感を持つ子どもは思春期に荒れる。思春期に我が子が荒れた家庭は、自分を顧みるべきである。子どもは突然モンスターにはならない。
かといって子ども側もそれを引きずるのは命の無駄遣いに他ならない。善いことは継承し、悪しきことは断つのが真の先祖供養である。大人になっても親のせいにしている人がいるが、責任転嫁からは悪意しかうまれない。親が失敗したと気づいたのなら、自分の生き方を改めればそれで済む話だ。
私たち先進国民は、多くの動植物だけでなく、途上国の人々を直接的間接的にも殺して生きている。善人と言えるニンゲンなど一人もいない。
感謝という言葉に酔うのは滑稽だ。その真意は生き様をみれば、表れているものである。
これら逆転の発想をもってすると、面白い。
「人のため」という言葉を使う人は自分のことしか考えていないかもしれない。
「愛する人の幸せを願う」という言葉や行為は潜在的な『逃げ』かもしれない。
知識で武装する人は、感覚が弱く、自分を信じていないのかもしれない。
善人に見える人は究極の悪人かもしれない。
知識人に見える人は劣等感の塊かもしれない。
悪人に見える人は善人かもしれない。
ネガティブな人は誰よりも優劣を決めたがる人かもしれない。
浮浪者は悟りに達した人かもしれない。
その方向は解決ではなく破壊かもしれない。
新しいものは進化ではなく退化かもしれない。
拡大することより縮小する方が幸福かもしれない。
こんな風に考えて生きていると、何が善で悪か、何が正しくて間違いなのかわからなくなる。
だから、正誤はなくて善悪もないというシンプルな答えにたどり着く。
人を罵倒する人がおかしくて仕方なくなり、自由に生きていない人が苦しそうで見ていられなくなり、地球を傷つける人間はバカな生物としか思えなくなるけれど、地球がこの世に私たちを生み出して命を授け存在しているということは、ただひたすらに生きることが私たちがやるべきことなのではないかとも思う。
清濁合わせのんで、喜びの背後に在る悲哀もきちんと受容し生きて死にたいと思う。
強さとは優しさであり
優しさとは悲しみである
悲しみは赦しであり
赦しは愛である
喜怒哀楽は人間であり
無は悟りである
自分を生きよう。
今日も確かに万物と共に生きている。
今日も皆さんありがとう。
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