美醜の種

鼠は私たちから見ればすべて鼠であるように、正反対のジャンルのニンゲンに見えても、私とあなたは他種から見ればまったく同じニンゲンだ。

その僅かな差異に気づき、それを違いだとか個性と呼んだりしている。

みんな大差ない。

生まれてから現在まで、それが20年なのか60年なのかは知らないけれど、その時の流れの中で、涙が出るほど嬉しかったり、死ぬほど悲しかったり、こいつ殺してやろうかと思ったり、これ黙ってたらわかんないじゃん、などという気持ちが湧いてきたりしたことがあるだろう。

あなたや私が、生き物として100%純粋に善かというと決してそうではない。

ニンゲンは決して善だけではなく、自分の中に悪意もあることを知っている。

美しい言葉を使っても本人だけはその醜さを知っている。

自己分析ができているから、他のニンゲンの気持ちがわかる。

自己過大評価している人には多分他人の気持ちはわからない。

地球上には他生物と共生する美しい生き物もいれば、ニンゲンのように自分の生きる大地を汚し、命を繋ぐことに関係のない殺戮や独占や搾取などを続ける強欲な生き物もいる。

個性はあるかもしれないが、地球から見れば、全体としてニンゲンは醜い生き物でしかないだろう。

ニンゲンの中には、美醜の種(たね)があって、独占欲に命を注ぎ込む類もいれば、SEXしか考えない類もいる。金という紙切れに生涯命を注ぐ類もいれば、自分が選択した責任さえ取れずに一生他人に責任転嫁する類もいる。

人々が敬遠したがるその類は、誰にでもあるそのたくさんの種(たね)の中から極端ともいえるほどに、特定の行為に命のエネルギーを注いでいるだけなのだ。だからといって彼らの中に愛がないわけではなく、優しさがないわけでもない。子どもの頃を思い出せばわかるだろう。いつからか彼らは、命のエネルギーの使い道をそこに集約しただけなのだ。

逆に「いい人」と定義され、人々に重宝される類もまったく同じで、誰にでもあるその美醜の種(たね)の中から、良さそうに見える行為に命のエネルギーを注いでいるだけのことだ。しかし、ときに美しく仕立てた綺麗事という嘘を、生涯言いとおさなければならない不幸に見舞われる類もいる。彼らの中に恨みや妬みや支配欲がないわけではなく、極端すぎるほどにその特定の行為に命を注いでいるだけなのだ。

ニンゲンは美しく醜い。

善人などこの世にはいやしない。

でもまあ、せっかくたくさんの命を殺して喰らっているのだから、美しくても醜くても、精一杯生きよう。

地球が生かしている醜き生き物もめいいっぱい愛してあげよう。

ニンゲンが本当に知能を使える動物なのであれば、皆死ぬことを心の底から自覚し、できれば他生物にも優しく、短い命の刹那の幸福を創造できる動物であってほしい。

 

今日も皆さんありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

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