議論は、議論という言葉を理解している者同士でしかできない愛のキャッチボールともいえる。
議論ができない人は、その人が幼児期から定義する人と人とのコミュニケーションや親子関係、人間関係の在り方に起因するものなのかもしれない。
こちらが意見を言うと、キレているときめつける人がいたり、一つのテーマに対してこうではないかと相手にはない考えを提示すると、それが正解で自分の考えは間違いだと言われていると思い込むような人がいて、議論は一方的な喧嘩に変わってしまう。
おまけに、その『正解』とやらに合わせて早々と議論をやめ、
「わかった、そうする!!」
と言葉を安易に放つ。
「自分の意見を言わずにすぐに賛同したんだ」
と思って信じて、応援する、準備する、予定を立てる。
ところが酷ければ翌日か数日、長くても一か月もすると
「○○に話したらそれは無理だと言われたからやっぱりやめる」
と平気で自ら約束したことを撤回し、関係者にありがとうも申し訳ないの一言もなかったりして、先日の議論は無駄に終わる。
そしてそれを幾度も繰り返す、もしかしたら一生繰り返す人もいるのかもしれない。
誰も強制などしていないのに、自分でやると言っておきながら『やらない言い訳』に全エネルギーを注いで話を創り、自己正当化するために誰かに責任転嫁し始める人間もいる。
うんざりするほどそんな光景を視てきた。
どうも日本語の定義や常識が違う。
こちらは単純に議論しているだけである。
マウントを取りたいわけでも、コントロールしたいわけでもない。
他人の意見に合わせたって、本人の心の中では自分の答えは決まっているのだから、初めからそういえばいいのだ。
わざわざ嘘をついて適当に話を合わせ、真剣に考えて意見を言った相手の命の時間を平気で無駄にするのは、愛のない利己的な人だ。
そのような議論をしながら子供たちも育ててきた。
「脳みそはないの?!」
自分の意見を言わない我が子に決まって放った言葉。
「あなたの意見は?」
おかげで独自の意見が言えるようになった(笑)
同レベルの言語が理解できる人同士なら、有意義な議論ができる。
「誰よりもラリーが出来て、誰と話すよりも楽しい」
と言われたことがある。
あるテーマに於いて価値観が違っていたなら
「なんで?なんで?」
と突っ込んでいくので議論がいつまでも終わらない。
議論に責任転嫁や正当化は全く必要がないのは、議論ができる大多数の賢明な人には周知の事実。
それに恋愛って自分と違う相手の部分を知りたくなる感情らしいしね。
なるほど。
議論しても互いの違いを認め合えることが出来たら、よい関係を構築できるだろう。
同じサピエンス。
優劣もなにもない。
同じ魂。
今日も皆さんありがとう
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