随筆 114

長い時間をかけて自らが生み出した創作物を世界に知らしめたいとおもうその欲求は理解できる。

しかし、クリエイターたるものは、その承認欲や支配欲よりも、もっと先を見据えなけえばならないのではないか。

これが教育についても創作についても、私が動けなくなった最大の要因である。

夢や希望を与えるための創作と、生命を殺戮する創作とは紙一重なのである。

一たび公に知らしめてしまうと、創造した作品または発見は誰かのヒントになり得てしまう。

ある人が描いた世界を、『利用』する生き物が在れば、その世界は作家が死んだ後にでも現実になり得る可能性があるのだ。

誰かに『見つかった』時点で、もはや作品は作家だけでなく公のものになる。

 

たとえば映画や小説の世界がそれだ。

ある種の映画が現実の話になってきていることにお気づきだろうか。

もちろん実際にやっていることをただ語るだけで、無知な人々はそれを『面白い架空の出来事』だと思い込み、笑ってお金を落としてくれることもあるだろう。

もしそれがリアルな出来事だと知れば、いったい幾人が笑って作者や荷担者にお金(自分の命の時間の対価)を支払うのだろうか。

またいつの時代も天才的な創造者はいて、その天才のシナリオが悪意ある誰かに利用され、時を経て現実になることもあるだろう。

 

世界を創るのは常にクリエイターである。

事細かに描かれた豊かな表現は、創造力を持てない誰かにとっては利用したくなる宝の山である。

アカシックレコードなどというものが宇宙に存在するのではなく、世界のクリエイターたちが創造、発見した(研究論文やジャーナリストの記事もクリエイターの作品同様)ものが

その才能を持たないニンゲンに活用・悪用されている。

だからこそ、クリエイターは自己の創造物を安易に世に出してはいけないのでははないかと私は考える。

目先の利益ではなく、自分の末裔まで脅かすような創造物なのか、他生物まで救うような創造物なのかを熟考し、手放さなければならない。

 

いま現実と化しているあのイギリス作家の小説は、単なる予告だったのか、創造力を利用されたのか。

定かではないが、描いた本人にそれを望む潜在意識があったことは否めない。描写ができるということは、本人がその思考を持っているということだから。

あれを『面白い』ととらえた周波数のニンゲンおよびニンゲン達は、作家の意識と同調し、それを現実にしたいと願ったから今が出来上がっているわけだ。

善くも悪くもクリエイターの潜在意識の力量と同調するエネルギー量が『思考の現実化』度合いに比例する。

あの話一つ例にとっても、そこに関与するすべての人間の意識が作者に同調しているということ、もっというなら世界でその作者に同調したものがこんなに大勢いたということになる。

 

『美しき緑の星』が売られることがなく、テレビで取り上げられず、書店で平積みにされることがない理由を考えてみてほしい。

多くの人間が、それよりも悪意ある殺戮奴隷話が好きなのだろう。人間も動物の一種ゆえ生きることに殺戮はつきものである。

 

そんなことを考えていると、この現状においてニンゲンである自分を肯定したいとか、虚栄心で自己を大きく見せたいとか、誰かをコントロールしたいなどと考えられる個体を視るときの哀れさは何とも言えない。

同調する世界に飲み込まれるはずだ。

 

すべては自己責任。

誰のせいでもない。

自分の意識が世界を創っている。

 

 

このままいけば、次はそろそろ『ダークエンジェル』の世界が来るのではないか。

準備はしておいたほうがよさそうだ。

 

 

 

 

 

 

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