一般的な賢者の知恵や名言に、「同感!!」となることも多いのだけれど、知っているのに知らないふりをしたり、故意に隠す行為は嘘とどう違うのかわからない。
もちろん、仕入れ値を客に話すとか、自分の貯金の残高を話すとか(無い人は言えると思うけど)は敢えて言うことでもないし、相手もまず訊かない。
誰にでもすべてをさらけ出す必要もないだろう。
ここではそういうことを言いたいのではない。
賢い者は馬鹿なふりをする
とよく云われる。
なぜなら相手に恨みを買わないから争いが起きない、という説で一理あると思う。
ビジネスなどでどれだけ依存者を増やすか、いかに相手に優位に立たせ動かすか、そしていかに自分の印字の桁を増やすか等を優先している類においては、よく使われる手法であると思う。
よしよしなでなで手法で、相手に本当のことを伝えずいつまでも依存させて詐欺る行為も同様に見える。
確かに争いは起きない。
だけど過去を振り返り、歴史的な偉人たちを思うとき、彼らは馬鹿なふりをしていたのだろうか。
争いが起きないよう、嫉まれないよう気を付けていただろうか。
正直に、まっすぐに貫く光のように、わき目もふらず独りで突き進んでいるイメージがあるのは私だけか。
(偉人というのは、ビジネスの成功者ではないので悪しからず)
自分より美しい人や賢い人を嫉む人は多い。だから愚者のふりをせよと説く人が多いのだけど、これまた程度を勘違いすると世のためにはならない。
嫉みにしても、ところ変われば美人の定義なども違っていて、島国ゆえの価値観を世界的価値観と思い込んでいるだけかもしれない。
英語圏で美しいと言われるアジア人の顔など、日本ではそうでもなく驚くこともしばしばである。
嫉みは殺意の源である。
嫉みのない人に殺意は芽生えない。
過去も賢人たちがシステムを創り、結果我々は簡単に車に轢かれることもなく、誰かに殺されることもなく、教育は誰しも受けることができ、いまや海外に飛ぶことも自由になった。
その賢者たちのおかげで今の自分があることは否めない。
それがなければすでに死んでいる人は多数のはずだ。自分さえ生まれてきていないかもしれない。
身長、顔などの形式だけでなく、運動能力や芸術的センス、印字の桁などそれぞれだけど、賢さ=智慧を嫉むのは、世界を創造するにはその智慧が必要だと潜在的にわかっているからなのではないか。
だけど争いを創るのは賢者ではなく、自分の方だと気づかなくてはいけない。
そういった賢者が考えていることに腹を立てる暇があるなら、それよりも平和的な解決法を考えることが建設的だ。
賢者といえど同じサピエンス、完璧な生物はこの世に存在しない。
たとえ死ぬまで創造できなくても、誰も気づかぬ微力でも、ホームレスをやっていたとしても、平和的な生き方を選択し続けることで世界は変わるのではないか。
だからこそ賢者たちは正直に意見を述べ、虐めやハラスメントなどという言葉を生み出さない社会を創らなくてはいけない。
ビジネスは詐欺ではなく、社会のためになっているかどうかで関与したい。
そうやって個人の意識が未だ進まないのは、賢者が賢者同士でしか本音を話さないことにあるのかもしれない。
愚者に見える大衆の中には、自分の良い考えを発言できない人も多数いる。
「やっぱりそうだったのか」と賢者の意見と自分の価値観が一致したとき、自信となって方向転換する人は数えきれないほど存在する。
たとえば、読書もそう。
著者との出会いに感動するとき、それはいつも自分の価値観や仮説と一致するようなときである。
それを行動に移せる勇者は確かに多くはない。
だけどそういった勇者が口を閉ざしてきた結果、成功は少数だけのものとなり、奇跡は特別なものとしてとらえられ、大衆は自分を劣性だと思い込む。
そう思い込み。
環境がどうであっても、フランクルのように心の自由を保つ人間はいる。
せっかくこの世に生まれてきて、すべての人に可能性があるのだから、出来る限り美しく生きて逝くほうが素晴らしいのではないか。
顔でもないし、通帳の印字でもないし、肩書でもない。
出来るも出来ないも素のまま生きていれば、自分と引き合う人間や生物が集まり、環境も引き寄せられていく。
隠したり嘘をついたり誰かを利用しようなどという意識も、それと引き合う人間や環境が引き寄せられてくる。
自分はどのような世界に生きたいのか。
真実は虚無 リアルはファンタジー
地球よ治れ
万物に感謝
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