現代にはとてもたくさんの瞞し物が溢れていて、持って生まれた崇高な生命の感覚というものが時に機能しなくなり、自分でも自分がわからなくなってしまうことがある。
例えば、自分ではある特定の食べ物を好きで食べていると思い込んでいても、実は脳内麻薬のようなものの依存症であったり、セルフコントロールできていない状態に陥っていることに気づかないでいたりすることもある。
なぜそれほどまでに悲しいのかとか、逆にいつもやる気のある人はなぜなのかとかも身体に取り入れている何かのせいかもしれない。
いつもそれらは単に性格だと片付けられがちだが、本人のせいではない別の習慣が要因なのかもしれない。
小さな小さな単位で『感じる』ことで、自分の中の細胞たちの声を聞くことかできるのではないかと考えてみた。
ハッキリと聴こえるようなものではないが、彼らが何を求めているのかが自分の選択の繋ぎ合わせから浮かび上がったりもする。
そうして細胞という名の小さな自分を感じていると、喧騒の中でやりとりするこれらの活動が果たして自分に必要なのかさえわからなくなってしまう。
本能なのか思い込みなのかさえ決めつけることはできないが、もっと自分を小さくして感じることに集中してみれば、誰に何を教えられなくても答えが見つかるように思うのである。
玉響の中で微睡んだ微笑みも、すべてはその小さな自分が感じてくれたもの。
万物と真摯に対峙することとは、感じることに手を抜かないことなのかもしれない。
自分の意識がどこから来ているのか。
この細胞や菌の集合体として在る自分の中で、生きて死に逝く小さな存在たち。
数えきれないほどの生命の集合体が土であるように、私達も数えきれないほどの小さな生命の集合体なのだろう。
そして、地球も同じく数えきれないほどの生命の集合体なのだろう。
もし自分のこの集合体としての身体がなくなっても、今自分の中に在る腸内細菌や皮膚常在菌はどこかで生きているかもしれない。
また異なる誰かの中に住むのかもしれない。
どこからが自分でどこからがそうじゃないのか区別できずに戸惑う中で、もしも細胞で愛し合えたらいったい何を感じることができるのだろう。
今日も皆さんありがとう。
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