愛の見分け方

無駄遣いが最も嫌いな私は、時間=その人の命を無駄に使ったり、平気でやるやる詐欺師として生きてる人が好きじゃない。

何故なら、愛が視えないからだ。

 

責任感と言うのは他者に対する愛なのだ。

 

もし無人島に独りでいるなら必要がなく、責任感と言うのは他者がいて初めて成り立つもの。

無責任=愛の欠落である。

 

逆に責任転嫁とは自分の心のバランスをとるためだけに目の前の絶対報復しないと踏んでいる善人に、故意に責任を擦り付ける悪魔の所業。

それを瞬時に判断してやっている。

決して気づいていないわけではない。

なぜなら、もしそれがなんたら組の親分相手なら間違っても絶対にしない行為だからだ。

 

愛のないニンゲンとの関りは幸福を生まない。

愛がないと相手の生きてきた命の時間を簡単に搾取する依存者が生まれる。

依存は愛ではなく怠惰の延長線上にある。

傲慢にも、誰かから命の時間もしくは何かを搾取するために依存するのだ。

 

愛し合うとは自立した人と自立した人同士にしか起こらない現象。

互いに相手を認め合い、尊重し合える関係性を言う。

もちろん役割分担は互いに納得ずくの上で、あってもいいと思う。

 

嘘つきも愛がない証拠。

コピペで貼り付けた極短期的な知識を人にひけらかす虚栄心を見せる人も愛がない類。

愛している人に、嘘など決してつくことはできないから。

 

共依存と愛し合うことは似て非なるもの。

どんなに愛し合っていても共に生きない二人だってこの世には大勢いる。

 

途上国では種違いの子をたくさん産むことは普通だったり、一夫多妻だったり、一妻多夫だったりする。

そんな中で、小さなコミュニティでは利己的な詐欺師ははじかれる。

当然だ。

嘘つきは群れにとって最大のリスクだから。

必ず不幸の根源となる。

もしかすると古代いけにえになるのはそういう類だったのかもしれない。

だから現代でも未だ文化継承できる先住民は存続してるのかもしれない。

恐ろしく見える文化も、地球的には害のない本能だったり自然の摂理だったりするのかもしれない。

 

たとえば、身体が動かなくても群れの役には立てる。

そこに生きるために精一杯のことは出来るし、それを賢明な周囲も理解できるはず。

息子が寝たきりになったからと言って、彼の知能はまったく衰えることはなく、家族にアドバイスの一つもできることになんらかわりはなかった。

群れの第三者が自分で創造できないとしたなら、クリエイターの役割を身体が動かない人が担うことだってできる。

大切なのは、自分がいかに利己的に傲慢に牛や豚や鶏を喰らったり群れの仲間の命の時間を搾取せずに他者とバランスをとって生きられるか。

 

結局、奴隷である仕事でも、クリエイトした作品でも、誰かのための無償の働きでも、愛がなければ良いものはできない。

それらを詐欺師に渡してはいけない。

怠惰な人間は努力なしに簡単に他者のモノを奪う。

 

下町の中にヒーローはいる

もてる印字の桁とニンゲンの徳は全くもって比例しない。

 

だから自分の才能に気づこう。

 

闇は一筋の光が射せば消える

 

今日も皆さんありがとう。

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