もしもファンタジーの世界なら

もしも何もかもがファンタジーなら……

たとえば—何かが起こる時。

 

宇宙から聞こえている声がある。

その人はそれがどこから聞こえているのか判断できない。

指示通り行動に出る。

誰も何も気づかない。

誰も聴こうとはしない。

真実の声は届かない。

 

人々は寄ってたかって犯人を仕立て上げる。

宇宙の声に従っただけの人なのに。

これが映画なら、エンドロールで僅かなヒントを与えれば、気づくものがいるかもしれない。

小説なら読解力の高いものだけがそれに辿り着くのかもしれない。

 

描いた作家の想いとエンディングは必ずしも一致しない。

誰かがそれを描きかえることだってあるのだ。

だけどもし、クリエイターの想いが強力なら、どんなに第三者が描き替えようとしても、最終的にクリエイターの目的通りの結果を生む。

創造できないニンゲンがクリエイターを利用しようとするとき、キャスティングは重要である。

 

それらファンタジーは、いつも強い想いの集合体だけが物質化させることができる。

つまり・・・・・・

だから何も知らないのなら思い込んではいけない。

自分がその荷担者に為っていることもわからずに誰かの命を奪い続けているニンゲンは山ほどいるから。

地球上の一生物のニンゲンごときが全人類の正解など提示できるわけもなく。

 

自分が地球の単なる細胞の一つのようなものと自覚して生きることを謙虚と言う。

 

1秒先に何が起こるか分からないから、未来予想図は100%ファンタジーだ。

だけど、自分で決めたように自分を取り巻く細胞たちは動く。

だから決めている人は現実化させる力が強いという当たり前の現象が起こる。

ただそれだけ。

 

決めるという日本語ではなく、決めるという意識の話。

ファンタジーを描くのは自分。

今日も他生物を喰らって生きながらえている。

だからせめて幸せなファンタジーを描かなくてはいけないと思う朝。

 

今日も皆さんありがとう。

Pocket

0 comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です