料理をすることは、生命力のひとつ。
料理ができれば、何処へ行ってもその土地の植物を美味しくいただくことができる。
だから世界のどこにでも気楽に引越しできる。ニンゲンが此処は自分の空だとか自分の海だとか自分の土だとか言わなければの話。
自家栽培も出来ず、狩猟採集もできず、料理も出来ないとなれば、ある日突然・・・・・のその日から死ぬしかない。
今日はまだ誰かの創ったシステムの名残で「貨幣で買える」ということを信じている人々が多数を占めているので、スーパーやコンビニで、命を買ってくることはできるだろう。
田舎移住したとしても、すぐに牛やら鶏やら豚と暮らして屠って喰らえるわけではない。
なのでマクロビ的な食に移行するのも大事な準備の一つ。
究極は知る人ぞ知る、光に頼るあの手法も良いと思う。
とはいえ、今はまだありがたくテーブルに30品目以上の命を乗せることも出来る。
だからシステムにも感謝して、愛をたっぷり込めて料理をする。
愛の量に治癒力は比例する
実際に自分の料理で誰かの細胞がキラキラするようになっていくのを感じたことが在る人にはわかるだろう。
自分の為に数えきれない命を殺して料理することにはなかなか力も入らないけれど、命をここまで繋いできてくれた祖先と、血肉にされた生命への責任として、そこは怠惰にはできないものだ。
だって喰うために働いているのでしょう?
レンジでチンとか食べたくないし、ロボットが作るモノも欲しくない。食べるとはそういうことではない。生命の基本だから。
畑仕事を始めてさらに作り手へも物流へも感謝するようになったが、できれば誰の手も借りず生産から消費までを一人でやりたいものだ。
生産と言っても相手は命なので、生み出しているのはニンゲンではないけれど。
農薬や化成肥料で大きくて綺麗なものを生産したいわけでない。種に感謝し祈りをこめて、見栄えが良くなくても、土に育ててもらった恵みを「ごめんなさい」と言いながら無駄なく美味しくいただきたいと思う。
まだ二年目のひよっこの私は、力がなくなった土地で試行錯誤しつつ「園芸」をやっている。
そう、農業は園芸だったんだなと思う今日この頃。
死んだ土でも、化成肥料を苗の横におけば、きっと自給くらいは誰にでもできる。
でも、しない。
熱帯の無人島で、樹からおちてくるココナツ、その辺でクラやマンゴーなどを採って生きてみたいという小学生時の願いは未だ衰えることなく、畑仕事を始めてそれはさらに強くなった。
つまり農薬も化成肥料も使わずにやっていても、この環境に満足できていないということだ。
縄文人が園芸を始めたという説がある。
確かに自分の定住先のそばに食べるための植物を生やすことができれば効率はよい。
品種改良して、甘く大きくしてきた結果が今だとするなら、どこにも自然農法なんてない。
でも同様に動物でも、犬やハムスターのように交配された不自然な命も、確かに意思を持って生きているわけで、野菜だって懸命に生きようとしているのだと思う。
ニンゲンは本当にどこまでも傲慢で馬鹿な生物で、昔から他生命の遺伝子操作も好きなんだよな。
それで生命は進化したのだろうか?
チップを埋められた犬猫は幸せなのだろうか?
去勢されたメスは嬉しいのだろうか?
まさかそれを愛だと?
出したエネルギーは全て自分に還る
この自然の法則に逆らえる人を見たことがない。
以前仕事で出会った80代の女性も言ったように、「蒔いた種は全て目が出るのよ」ってのは本当だ。
良くも悪くも。
今の世界は、自分たちが出したエネルギー通りに動いている。
当たり前の話。
そして今日も愛をこめて料理を作るけれど、私はいったいそれを誰に食べさせてあげたいのだろう。
届けたい存在は、どんどんこの世からいなくなる。
だけど、先祖代々今まで殺してきた命を無駄にするわけにはいかない。
それらに感謝し、毎日死んで入れ替わる細胞や、助けてくれている菌類も含めた自分の仮の姿に、ありがとうをこめて送り届けようと思う。
万物にありがとう。
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