ニッチ

誰も見つけていないものとか、ニーズがあるのに皆がまだ知らないもの、気づいていないもの・・・・などをここではニッチと定義させていただきます。

とある研究会で、初対面の教授とお話ししておりましたところ、まさに日本人の潜在的なニーズとニッチに気付かれているように思いました。

二人だけで話し込んでいたので、残念ながら周囲は誰も聞いていませんでしたが、彼はとても興味深いことを話していたのです。

「ニッチを広めることができる人はそう多くはいない。 もしもそれを多数の人に提示することができれば、その人の投資は100万倍くらいになるだろうね。 ここには広める力がある人が何人もいるが、それに気づくかどうかだよね。」

って・・・・。こういう何かを見抜く才能って魅力的ですね。

多くの人が良いというものの実態は、時に数になびいた判断のできない人々の意見も混在しています。つまり、何が良いのかも説明できずに流行りにとびつくというあの様です。数と必要性とはイコールではありません。

「では貴方がやりましょうよ」

って言いたいけれど、学生にたくさん時間をかけておられる様子で彼の役割はそれではないのだと思いました。ニッチについては、誰かがそれに気づいたとしても個人の支配欲から敢えて世に出さない動きをする場合もある、だから絶対的な社会に対する愛が必要なんだと仰っていました。

必要でも消される人っていますもんね。良い事が表に出るとも限りません。

閃きとはある意味、このニッチに気付くことなのではないかと思います。それを世に出せた人が大きな功績につながっていくのではないかと思います。

ただ成熟したこの人間社会はもはや、かつての「貨幣をたくさん得る」ということを成功とは呼べない世界になったのではないかとも感じています。

生きる力とは、貨幣をたくさん得ることとは限らず、どんな環境においても変化し対応できる知恵と身体能力だと考えられます。通帳の印字だけに頼っていてはガンになっても自分で治すこともできません。起こり得る未来のリスクを、ネズミのように鳩のように第六感で回避する力を退化させないことも大切です。

私の考える現代の成功とは、地球全体のバランスを保つ活動であったり、生物が幸福に感じる社会の創造です。一切の悲しみがないということではありません。動物である以上、自然災害の犠牲になることもあるでしょう。人間の作った武器や車が毒が存在している以上、苦痛や痛みも避けては通れないでしょう。

そういう点から考えると、私たち消費者もどんなものを作り販売する企業に、自分の命の時間=働いて得た貨幣を差し出すことを考えなくてはならないのだと思います。それが世界を変えることの一つでもあるのでしょう。

人間の争いを減らしたり、私たちが独占し過ぎた資源を不足しているところへ戻したり、人々の見栄や欲や見せ物のために殺されていく動物たちを助けたりする活動をしている人々が、困窮していたりボランティアで働かされていることにはいつも疑問を持ってしまいます。

昨今心の問題が取りざたされるからと言って、その原因を取り除くことなくカウンセラーを増やしても鼬ごっこでしょう。その原因は社会にあるのかもしれません。また、話を聴いてあげる対象を間違っているのかもしれません。

「若者たちのやる気が見えない」という年輩者の意見を耳にしますが、それは社会への諦めからのものかもしれません。年輩者が正しいと信じてきた道が、彼らにとっては正しくないのかもしれません。

今はニッチに見えることが変化し始め大きくなれば、それが常識になっていきます。そのような動きは世界のあちこちで少しずつ広がっているようにも感じます。

問題の解決法は、人々かまだ知り得ないニッチな世界にあるかもしれません。

とはいえ、地球から見ればそのような人間活動は単なる循環で、小さな抵抗をしたところで必ず私たちの存在もいずれ消えるのですから、大した問題じゃないのかもしれません。

人間も動物なので、自分さえよければよいというのが正解なのかもしれません。

でも群れで生きる限り、出来ることなら隣人と手を取り合い平和的に笑って生きて逝きたいものですね。

 

今日も皆さんありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

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