何も法律に違反して「見つかる」ことだけが犯罪じゃないし、犯罪にならなければ善行というわけでもありません。法律に違反したとしても、悪というのが難しい場合もあります。
本来、しなくてはならないのは
誰かが決めたシステムに洗脳された前提での犯罪を憎むことではなく、脳を使って、それが生き物として善行なのか悪行なのかを熟考し、自らの力で答えを導くことです。
ごく普通に家庭の中や学校や、会社の中、社会の中で、暴力やイジメや虐待が行われていたりするのが残念です。
村八分という言葉や、綺麗事、イジメなどという日本語が存在するということは、民がその言葉を必要とするような民だということになります。
ヤクザから政治家まで同じ人間だと考えてきた私は、表面的な「犯罪」という括りで個人を見ないようにしてきました。
人々はこの「犯罪」「政治家」「芸能人」などという言葉に特有のイメージを持ちます。肩書はとても便利なものなので、皆使いたがるのでしょう。
その人の人格、目的、食べているもの、生活習慣、過去のトラウマなどなど背景を総合的に見て判断するとなると、安易に悪人とは決めつけられません。
平和という言葉のイメージでも同様です。
世界においても、数字上は30年前と比べ「平和」になったかもしれません。
しかしそれも人間の都合の良いデータだけであって、宇宙ゴミの数や殺戮された牛や豚の数、人間活動によって絶滅に追いやられた生物の数、遊びで殺されるライオンの数や、象牙のためだけに殺される象の数は横並びにされません。果たして本当に地球は平和なのでしょうか?
地球も星として生まれた以上いずれなくなるでしょうから、人間が台頭し何かが絶滅することも、人間が増えすぎていずれ絶滅するだろうことも、生まれたものが死ぬという自然の摂理の中では至極全うな流れなのかもしれません。
誰かが創ったお話を指標にするのではなく、判断は自分の頭でするべきだと思うのです。
数字は時に便利ですが、人格をはかることには使えません。消費者心理を読まなければお金に替えることもできない代物を製造し、銀行通帳の印字の桁を増やしたからといって人格が高いわけではなく、歌をうたうのが上手くて有名になったからといって人格が高いわけでもありません。
もちろん両方兼ね備えている方もいますが、スキルや才能とそれとは基本的には別のものなのです。
たくさんの富を持てる人でも、その人がそれを何に使っているのかを見れば、なんのために生きていくのに必要のない量の富を持っているのか判断できます。
それぞれがきちんと自分の脳で判断して選択していけば、世界はもっと明確になるでしょう。
人を責める前に、やるべきことはいつも自分の成長なのだと思います。
皆が賢くなれば、揉め事は劇的に減り、弱いものは自然淘汰されて、水が流れるように自然にバランスもとれていくのかもしれません。
自分の人生は自分が選択した結果なので誰にも責任転嫁はできません。
本当の平和が地球にもニンゲンにも訪れますように………
今日も皆さんありがとう。
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