人の想いを受け取るには目には見えないレセプターが必要です。
例えどんなに私を必要とする人がいても、私のレセプターに適合しなければ、私は「愛されている」とは感じません。
行動その他から、自分を好きなのだとは判断できますが、愛し合うことはできません。
過去、その判断だけで申し訳なくて関わってみるモノの、どんなに努力しても愛せない人が数えきれないほどいました。
好きにはなれるけど愛せません。
もしくは嫌いではないけど愛せません。
レセプターが違うのです。
三角の愛情を億と放たれても、丸のレセプターを持った人には適合しません。
多分、適合する人と出会える人はこの世に数えるほどなのです。
だけど行動その他の判断で、感謝と共に誰かと生きることは可能です。
愛していなくても。
だけどもし、途中でレセプターに適合する相手と出会ってしまったなら、その間には多分誰も入ることもできないのです。
ピッタリと融合した二人の間には、蟻一匹も入れない、そんなイメージです。
相手を支配したくて独占したくて駄々をこねても、無理なものは永遠に無理です。
ただ、相手の幸せを願い、愛することに幸福を感じればよいだけです。
相手を壊したり邪魔をするのは愛ではなく、敵意です。
レセプターも合わず、蟻一匹どころか大勢の人が二人の間に入ることが出来るけれど、行動と判断と感謝の気持ちで繋がっている関係の方が、この世の中にはきっと多いでしょう。
顔かたちが異なるように、愛の形も異なります。
でも一つ言えることは、愛なら相手の幸せを願い、独占したり支配しようという感情は湧きません。
親子でも夫婦でも友人でも例外はありません。
どんなに欲しがっても無いものは無い。
現実を直視した先にしか道はありません。
誤魔化しの時間は殺して喰った命への冒涜。
細胞を繋いできた祖先への冒涜。
先祖へも万物にも愛のない行為です行為です。
今日死んでもいいように生きましょう。
明日何が起こるかもわからないのだから。
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