昭和に生まれた自分。
何も変わらないものや失ってしまったかのようなもの。
この頃、走馬灯のようにあの頃の暮らしが思い出される。
私は都会に生まれたので、小学生時にはもうコンビニがあった。
24時間営業ではなかったけど、夜遅くまで開いていて父がよく買い物に行った。
子供より大人といる方が好きだったので、幼稚園には行きたくなくて一年しか通っていない。
それ以前だったと思う。
テレビで観ていたアニメのはじめ人間ギャートルズ。
自分の暮らしとを比べて、こう思った。
「こうやってずっと生きていれば、仕事や学校は必要なく、戦争など起こさず、アスファルトで塗り固めることもなく、地球は美しかったのではないか」
まだほとんどの家庭にクーラーが無く、団扇で暑さをしのいでいた頃。
冷蔵庫は小さく、冷凍室は氷を作る小さなスペースしかなかった頃。
車もお風呂も都会の一般家庭にはなかった頃。
その後、またテレビで先住民なる人々がいることを知った。
当時は原始人と呼んでいた。
小学生時、必ず先生から訊かれる質問がある。
「尊敬する人は?」
大抵の子はお父さんかお母さんと答える。
私は原始人と答えた。
低学年の頃、ルーツを観た。
黒人奴隷のクンタキンテ。
なぜ人が人を差別するのか、理解できなかったししようとも思わなかった。
スーパーの品は傷んでいるからよくないと主婦たちは口を揃えて話していた。
主婦たちは買い物かごを持って歩いて市場に行った。
ポイントカードはないけれど、市場ならではの券をもらって、それを紙にノリで貼って持って行くと卵と交換してくれた。
もみ殻の上にたくさん並べた卵を一つひとつライトに照らして売っていた卵屋さん。
お見舞いも卵だった時代。
コーラの瓶は傷だらけでリユースされていた。
自動販売機は瓶ごと出てきて、備え付けの栓抜きがあった。
男子が母親と市場に行くと恰好悪いと言われ、学校で噂になった。
でも母親と女湯に入ってくる男子は小学4年生までいたと思う。
現代、自治会のイベントを嫌がる人は多いけど、当時は都会でも男性たちは皆仕事を休んで参加した。
年に一度の地蔵盆は、近所の人たちと遅くまで盆踊りをして食べて飲んで、何より楽しい夏休みの行事だった。
当時、外食をする家庭は少なかった中で、うちは毎週日曜には喫茶店にモーニングを食べに行く。
隣が有名な焼き立てパン屋だったにもかかわらずだ。
その頃、近くの商店は、ヤマザキパン、フジパン、神戸屋。
近所の子たちはそこのパンを食べていた。
例によって、年輩のおばちゃんが、駄菓子も一緒に販売しているパン屋だ。
隣のパン屋では、ハンバーガーが150円、食パンも160円だったと記憶している。
朝ごはんで家族分を買いに行くと1000円は支払っていた。
高度経済成長期、給料はどんどん上がると思い込んでいた大人たち。
まだ途上国みたいじゃなかった元気のあった時代。
衣類は国産で、盆正月の為に一着1万円くらいのモノを買ってもらっていた。
趣味は母。私が選んだことはない。
価格も5千円とか2万円とかキリのよい金額で、1980円という安そうに錯覚させる価格を初めて見たのは、心斎橋で売られていたルービックキューブだったと記憶している。
1ドル380円くらいだったか、外国産は『舶来品』と呼ばれて高級品だった。
母はよく買っていた。
両親はお酒をたしなむので、よく二人で飲みに行った。
立ち飲み屋はあったけど、二人はスナックが好きだった。
カラオケはまだカセットテープと分厚い歌詞の載った本で歌う時代。
毎週のように独身の若い男性たちが家に来て、両親が食事や酒をふるまう代わりに、私を可愛がってくれた。
映画に連れて行ってもらうがタイトルは『男はつらいよ』(笑)
子供の私には全然面白くなくて高学年になったら断るようになった。
嬉しかったのはサラダ専門店に連れて行ってもらったこと。
大きな木のボウルに山盛りのサラダ。価格は1200円くらい。
それをおやつに食べていた。
今の時代の方がずっと安い。
中学時代の楽しみは友人と行く銭湯。
銭湯が当たり前の都会の下町では、その時代から露天風呂、サウナ、テレビ付きのスチームサウナ、寝風呂などに普通の価格で入れた。
スーパー銭湯ではない。普通の銭湯がそうだった。
友人と良い銭湯を見つけてはあちこち通った。
文字通り裸の付き合い。
グンゼの白い大きなパンツしか履かない子供ばかりの時代に、黒の紐パンを履く私に後ろ指を指すおばあちゃんたちが何人もいた(笑)
高校生時代は朝5時から開いている銭湯に自転車で30分かけて一人通った。
朝シャンという言葉が流行ったが。それ以前から朝風呂が好きだった。
小学生のころ、帰宅後は大抵近所の子たちと外で遊んだ。
ゲームはまだインベーダーゲーム。
都会で流行った三年後に地方で流行り出したと知人に聞いた。
インターネットも宅急便もない時代、伝播するのは時間がかかったのだろう。
女性は夏になるとサンオイルを使った。
小麦色の肌が魅力的な女性というスタイルは鈴木その子さんが登場するまで続いたと思う。
いつの間にかUVUVとうるさくなった。
省エネという言葉は小学生時に初めて聞いた。
でも大人たちは何かを努力するように見えなかった。
私は個人的に原始人を尊敬していたので、便利な電化製品を欲しいとは思わなかった。
暑い夏の夜、家族で銭湯に行くために洗面器を持って、僅かしか見えない星を眺めながら歩いた。
さそり座のアンタレスを見つけると嬉しかった。
じっとりとした汗をかきながら扇風機にあたり、父がビールを飲みながらテレビで野球を観ていた夏が大好きだった。
冬はラクダの毛の下着の上下を買ってくれた。
ウールが当たり前、子供に化繊など着せたりしなかった。
暖房はもっぱらこたつと石油ストーブ。
それなのに学校では例によってアレ『子どもは風の子』
半袖半ズボン、スカート生脚で通うのだ。
でも確かに誰も病気になったりしなかったな。
中学の頃はお小遣いを使わずに貯めて、好きな歌手のシングルとLPレコードを買った。
結婚する18歳までずっと買い続けたレコード屋のおじさんは、私を上顧客として扱ってくれた。
大きなステレオがあったので色んなレコードを聴いた。
カセットテープが主流になっている友人たちの中で、私はレコードが好きだった。
以前実家に置いたままのステレオを、もうしばらくそのままにしておいてと頼んであったのに、母は邪魔になると言ってゴミに捨ててしまった。
本当にもったいない。
病弱で大人しかった私は、親とはあまり会話しなかった。
だから両親は私の価値観など全く知らずに来た。
40を過ぎて活動する私の価値観の軸は、実は幼稚園に入るずっと前から同じなのに
「もう自分の子供じゃないみたい」
と母は言った。
人は思い込みで生きている。
私が遠足も参観も興味がなかったことを知った母は泣いた。
私にとって遠足は全身がむくんでしまうとてもつらいイベントで、参観日は親が見たいから来るものだと思っていた。
小学生時、塾に通っている子は学校の勉強についていけない子で、中学でも同じく志望校に入れなさそうな子が行くところが塾だった。
だから私は塾に通ったことが無い。
ただ、教育に興味がない両親からもどこからも情報が全く入らず、先生たちは当然進路について我が家がそれ相応の目標があると思い込んでいて、結果、自分の狭い価値観だけで道を決めた中学三年生。
息子たちが受験時に偏差値について教えてくれるまで、よく知らなかった(笑)
あの頃、塾にでも通って誰かがアドバイスをくれていたら私は間違いなくここにはいない。
子どもも産んでいないだろうし、結婚もしていないと思う。
運命の分かれ道ってあるんだろう。
こんな風に毎日次々と昭和の記憶が映像化する。
いったい脳のどこにこんな記憶が?って思うほど。
8歳の頃、唯一の友人だった女の子の家でおやつに焼いた食パン。
あの頃のおやつってそんなもんなのよ。
レトルトハンバーグが出現して母は好んで買ったけどまずかったな。
年に一度か二度作ってくれる、ボールの様な母のハンバーグの方が美味しかった。
近所の肉屋でグラム売りする牛肉も、今よりずっと高価だったけど、食べ盛りの小6の頃はステーキは二枚ずつ焼いてくれていた。
北海道のものは北海道に、沖縄のモノは沖縄に行かないと食べれない時代。
それでよかったのだと思う。
欲が過ぎたね。
おかげで私なんかでも途上国に何度も行けたのだけど。
幾度かあった昭和の分岐点で、飛行機に乗って海外に行かなかった自分は今、田舎移住したわけだが、アナログな家事や畑仕事、井戸やかまどに惹かれ、まだそういったものが存在する地域があったことに驚愕している。
デジタルにまっしぐらな時代に、逆のスキルアップを図ってきた自分とのギャップはまた面白い。
昭和を思い出せばなんてことない。
アフリカを思い出せばなんてことない。
でもマシンが嫌いなわけでもないんだけれど。
夢うつつで時代変遷に乗って生きませう。
今日も皆さんありがとう。
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