今日死んでもいいように生きる
それが小学生時に余命宣告を受けた時からの私のモットーです。
そう思っていても、他人と関わるとそうも言ってられないこともあります。
実際、結婚などしてしまい、子供も産んで家族が増えたりすると、責任もどんどん重くなり、管理職になれば仕事も放置できません。
然しながら元来何のために生きているのかを見失わない自分は、一時的な他者への同調という積もり積もった違和感は、定期的にリセットしてきました。
だから3回も離婚しているわけで(笑)
年齢を重ねるごとに、24時間の配分を、どうしてもしないといけないことと自分の本当にしたいことに分けるようになりました。
約束したことを時間がかかってもやるという選択を取るがゆえに、膨大な年数を費やさなければいけないこともあります。
相手がいる場合、相手の気持ちが変化して「もういい」と言ってくれた場合はこちらもSTOPすることができますが、言わない限りそれもできません。
また自立しない他者が近くにいればいるほど教えなくてはならないことが山積みで、一度で覚えられない人の場合、何年も同じことを言い続けなければならず、自分のための時間がどんどんなくなります。
ですから自立していない大きな子供を相手にするのなら、賢い動物たちといるほうがずっと楽しいということになるわけです。
仕事においても、寝る間も惜しんでまともなものも食べずに隷属するなど、この世に生を受けた生物としてやりたいこととは思えません。
それなら自分のやりたいことのために使いたいので、雇用されるメリットよりもデメリットが上回れば金額などお構いなしに辞めます。
然しこれは、人間の創ったお話を正しいと信じている大多数の人には全く通じない話です。
それで会社をおこしたわけです。
ですがいくらシステム上の同調だとは言え、借金して起業した以上、貸主に結果を見せるのが責任。
愛には愛で返すのが当たり前ですから。
そしてどうせやるなら、何かしら受け手の幸福に繋がるものを創らないと生きる意味もありません。
だから一回聴くだけで小学生でも理解できるような、自覚と自発性を促す「思いこみの外し方」なるセミナーを創ろうと思ったわけです。
なるたけゼロベースの自分自身に立ち返ると、人は自分が本当は何がしたいのか悲しかったのか、嬉しかったのか、誰にわかってほしかったのかなど、自分の本心に気づきやすくなります。
人は気づかないと変わりません。
強制的に教え込まれても、心では反発しています。
それは毒となって全身をめぐり、必ず良くない事象を自分に引き起こします。
人間関係の基盤、建築でいえば基礎にあたる部分をご自身で造ること、そのスタートアップのようなものでもあるかもしれません。
全て実体験から話すように構成しているので暖簾分けは不可能ですが、受講者各位からの手ごたえはいつも大きいと感じています。
そのお声の数々が、私の社会における同調時間を有意義なものに変えて下さる何よりの返礼なのです。
昨今、楽観視もできない先が見通せない時代ですが、本当に自分一人だけのことを考えるなら、
「○○だけやっておけば完了」
という答えはとっくの昔に出ていて、私はもう何も要らないのです。
で、本当にやりたいことはというと……。
創作ですね。
パッチワークと編み物。
個人的なファンタジー。
そしてバラとハーブ、動物と戯れることくらいでしょうか。
大阪を出るときも同じことを伝えたのですが、私の傍らにいる人間たちには全く伝わりません(笑)
でも今まで、やろうと思ったことはすべて叶いました。
本当に生きたい場所もあります。
多分、全部叶うと思います。
となると、まだ時間は残されていそうです。
今日も皆さんありがとう
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