二兎を追うものは一兎をも得ず

二兎を追うものは一兎をも得ず

よく聞く諺ですね。

能ある鷹は爪を隠すと同じ、私は少し違った捉え方をしています。

 

確かに傲慢な欲張りは、当然性格も良くなくて愛されることもなく、

「どちらも欲しい」

「どうしても欲しい」

と、自己を顧みずに二股などしてもどちらも失うことは多いと思います。

よくある不倫がばれて、愛人にも嫁にも捨てられるパターン。

 

または婚姻の書類を書かずに何人もと同時にSEXFRIENDになり本命を騙し続けている人は数え切れないほど見てきました。

そういう類が厚かましくも

「愛されたい」

などという言葉を吐露しても、よほど盲目の相手でない限り、シックスセンスという地球の与えたリスク管理の本能によって、そのような利己的なニンゲンを、本気で愛することができなかったりするものです。

ニンゲンは退化してアバターになったように見えても、かろうじてそのような感覚が遺っています。

 

好き嫌いは個人の自由なので嫌うのも大いに結構ですが、利己的さは種の群れにとって常にリスクなので、嫌いになる理由もきちんと精査すれば

「なるほど、当然だ」

となるわけですね。

 

ですが、時に一妻多夫、一夫多妻など、書類上の契約とは異なる生活形態をとっている人もちらほら見かけます。

そういう人を見ると、日々淡々としていて、動物的表三大欲求に執着していないように思えるのです。

性欲、食欲、睡眠欲など、わかりやすいもっとも簡単な欲求は、単純な快楽を私たちに与えるかもしれません。

ですが、なぜそこまで異性に執着するのか全く分からないという人も少なからず存在します。

欲求と精力は比例せず、欲求がない方が逆に精力が高かったりするという不思議。

また年齢も関係なく、個人的な欲求と執着は、どうも死ぬまで続いているようです。

 

探求心の強い類は、快楽は知識欲が満たされることによって起こります。

支配欲の強い類は、コントロールする数が多いほどに快楽を覚えるのでしょう。

金という印字の桁にこだわる類は、それを人間の価値だと思い込んで快楽を得ているようです。

 

支配欲は相手が要ります。

金もシステムに依存することと、民が洗脳され切っていることが必要です。

知識欲だけは自由です。

誰かの書いた教科書や論文でなくとも、一生物の馬鹿なサピエンスが学ぶには土からでも風からでも虫からでも可能だからです。

つまり生きている限り何処ででも欲は満たされ何かに脅かされることがありません。

もっとも幸福で自由な欲求と言えるかもしれません。

 

また二兎を追うような類は前述した利己的さから疎外されるパターンに陥る可能性が高いですが、そもそも一兎をも追わない人には百兎でも万兎でもやってきます。

 

執着は錘となって自分を海の底に沈めていく

 

誰も一緒に沈みたい人などいないでしょう。

執着なく大の字になって光を浴びて笑っている人のもとに人は集まってくるのだと思います。

支配も依存も搾取も怠惰もすべて錘。

強欲も錘。

錘が脚にぶら下がっているなら自分で脚を切ってでも海の上に浮かんでいたいものですね。

 

今日も皆さんありがとう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Pocket

0 comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です