映画の中で、シーザーが放つ
「お前に生きる価値はあるのか」
という言葉。
私自身がずっと自分に問うてきた言葉でもあると言いましたが、ゴリラが仲間を裏切って人間と共に仲間を殺すというシーンで、リーダーの猿が言い放った言葉です。
結局その裏切り者は、仲間が死んで逝く姿を見て、最後にはニンゲンに砲弾を渡すのをやめ、自分が盾になって撃ち抜かれて息絶えます。
群れで生きる種にとって、役に立たない存在。
群れのリスクは必ず嘘つきであり、敵に寝返るような判断のできない脳は、結局相手側にとっても脅威で、最終的にはお払い箱になるのは必至。
その判断を瞬時にするのがサピエンスであるはずで、仲間を騙す、仲間に嘘をつく、仲間から搾取する、仲間に依存ばかりするような生き物に
「お前に生きる価値はあるのか」
とついつい言いたくなるのも理解できます。
ですが、どんなに苦しそうでもどんなに心が醜く見えても、地球がその存在を生かしてあるということが答えであり、実際、ニンゲンごときに善悪は決められません。
自分がその存在を必要としていなくても、大嫌いでも、迷惑だと思っていても、地球が生かしてあるということが答えなのです。
天国に住む人は生きている世界ですでに天国にいて、地獄に住むものは生きている間にすでに地獄にいるという話をよく聞きます。
食べることばかりに執着し、我が子にも与えず自分だけこっそり食べるような親などは既に餓鬼道に堕ちているとも聞きます。
それが本当なのかたとえ話なのかは知りませんが、つまりは地獄に見えてもその人にはその世界が自分で選び続けている天国であるということに間違いはないでしょう。
だから世界観の異なる人間に言葉は永遠に通じません。
ニンゲンは言葉を頭の中でつぶやく生き物で、ほぼ全員が自己正当化に走ります。
ゼロベースで考えることはとても困難で、自分の過去や現在の行動を正当化する意見を正しいと言いたがります。
かくいう私もそうなのです。
遠くない未来にやってくる世界で自然淘汰が起こるなら、それは地球の浄化であり、自然治癒力なのだと思います。
既に私が生まれた昭和には、子供の私から見た人間たちが「地球の癌細胞」のように見えました。
土を塗り固めて平気で笑って生活している人間よりも、塗り固められたことによってどれだけの生物が殺されていったのか、地球は本当に大丈夫なんだろうかという方が気になりました。
都会の真ん中で生まれたおかげで気づいたことであり、自給自足の途上国民に生まれていたら自然との共生が幸せで気づかなかったかもしれません。
システムを誰かが創ったおかげで死ぬはずだった命が生きながらえ、絶えたはずの家系が続き、ニンゲンが増えたのだとしたら、システムが崩壊したらドサッと消えてしまうというのは、ごく自然の成り行きに見えます。
不安な人は自分で新しいシステムを作ればよいと思います。
役に立つとか立たない、価値があるとかない、そんな意見は本来どうでもよくて、地球が病んできているなら自然治癒力が働くだけのこと。
そこに人間が不要だとなれば癌細胞のように消えてしまう。
それも自然の摂理でしょう。
ですが、どんな生き物も備わった自然治癒力があります。
生物の一種の自分が傲慢な考えを持ったり抵抗したりせずに、地球の自然治癒力を高めるほうにしなやかに合流すれば、自然と新しい生き方が自分の中から湧いて出てくるはずなのです。
地震の前に飛び立つ鳩や、火事の前に逃げるネズミのように。
群れで助け合う種もいますが、動物たちは自分のことは自分でします。
子孫に負の遺産を残す種は人間以外に何がいるのでしょうか。
個人的には他生物や途上国を直接・間接的に搾取し続けて生きてきた先進国民として、これ以上地球に害を与えないような生き方を考えなくてはいけないと思っています。
口に入れる命の念が自分の体の中で昇華できるよう、どう生きればいいのか毎日考えます。
喰って出して交尾して寝るだけの命の時間を、暇になればなるほど余計なことに使うのが人間。
その「暇な時間」を何に使うのか。
そこに充実した命の鍵があるような気がしています。
言葉より行動が真実です。
群れのリスクとメリット
子孫衰退か子孫繁栄か
自己正当化と超現実主義
支配と依存
質素と強欲
自然と文化
そんな言葉がずっと自分を動かしてきました。
誰にも期待せず、地球の自然治癒を祈ります。
万物にありがとう
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