親子であっても、恋愛であっても、人間関係の摩擦というものは、価値観が異なることを互いに認識できていないところからきています。
何が正解なんて本当は、個々によって違うと思いませんか?
アマゾンの中で生きている先住民ならば違いはさほどないかもしれませんが。
上手くいっていない人との関係を一度振り返ってみてください。
本来は食糧にありつき、命を明日につなげ、子孫を遺して死ねたら動物としては正解であるかもしれません。
でも人間が複雑にし、そしてこのような時代に生まれた結果余計な副産物みたいなものが産まれ、限りなき欲望のもとに、幸福も正解も多種多様になりました。
例えば自分の生き方と真逆の教育を受けてきた人などは、常識といわれるものが異なります。
電車のホームのベンチで一人でうなだれている人がいたら、父は即座に私たちを連れて降りるようなことをしてきたので、私も倒れている人を無視して通り過ぎることはできなくなりました。
来客が何十人来ても、食事やお酒まで父母は振る舞っていたので、それが当たり前だと思っていました。
でもよく考えてみたら、一般的には損得を考慮してそういうことはしません。
これらの行いを何の得にもならないバカだという人もいて、そちらの意見もわからなくはありません。
結果的に我が家はお金持ちとは程遠い家庭になりましたから。
大学にも行かせることが出来ないと中学生の頃に宣言されていました(笑)
結婚してからもこの点については悶々としましたね。
でもどちらが正解かなんて決められないのです。
対面でもネット上でも、度々論争は勃発し、炎上してしまうことがあります。
境を決めた特定の人間の範囲内においては、ルールは必要だとは思います。
でも本来は、誰かの人生を誰かが強制することはできません。
正しいだの間違いだのと論争になりますが、実際にそこにあるのは、その人の好き嫌いだけなんですよね。
だから最終的には思い通りに生きればよいと思うのです。
争うのはやめましょう。
嫌なら関わらないという方法があると思うのです。
親子でも、母親の卵と父親の精子が融合して別の人になっているわけですから、当然子どもは、母親と同じではないし、父親と同じでもない。
受精卵から胎児になっていく過程で、母親が身体にとりこんだもの、毎日脳から出た神経伝達物質や内分泌ホルモン、気温の変化など、兄弟でも同じになることはないでしょう。
だから違って当然。顔のようにもちろん中身も。
世界観は人によって違い、近しい人間と生きる心地よさは言うまでもありません。
でも、同じように自分とは異なる価値観の人々もたくさん存在しています。
マサイは一夫多妻、モソ族は一妻多夫です。
いかに違いを認め合えるか、自分だけの正解をおしつけないか、冷静に考えれば、異なる価値観があって当然だと誰しも気づくと思うんです。
人間関係における摩擦の原因はここにあります。
互いに傲慢に自分の正解をおし付けあうなら平行線をたどるでしょう。
僕が正しい!
私が正しい!
って言えるような人間は独りも存在しないと私は思っているんです。
地球の上に生きている生物の一種と考えてみると、そう思わずにはいられないのです。
だから
「お前はおかしい!!」
って私に言う人がいると仰天するんです。
素晴らしい人生を生きられてるんだなって。
私はそのような間違いも失敗もないような人生を生きていないので、誰かにあなたはおかしいなんて言えません。
伝えることができるとすれば、自分の
好きと嫌いだけです。
一度自分を顧みて、自分の価値観はどこからきているのか整理してみるといいかもしれません。
そして目の前の人と、認め合って愛し合えたらいいですね。
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